「大日経を読み解く」解説
【経題の解説】
今回は「大日経」の「入真言門住心品第一」を解説する。前回の現代語訳では、様々な資料を参考にしながら自分なりに訳出したが、ひとつひとつの文章に諸説が紛糾しており、かなり頭を悩まされた。ならばと禅定に入り、内観による閃きを頼りに、何とか自分が納得できる訳文を仕上げることが出来た。
それはさておき、この「大日経」の正式名称は
「大毘盧舎那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)」
である。極めて端的に訳すと、「偉大な毘盧舎那如来が我々に悟りを開かせるために様々に姿を変えながら悟りのエネルギーを注入して説かれた教え」となる。あくまでも我訳である。「大毘盧舎那」は「大日如来」のこと。「成仏」は悟りを開いた存在であるブッダになることであり、この場合は「悟りを開かせること」となる。「神変(じんぺん)」は不思議な力で姿形を自由に変化させることであり、「加持」は密教では極めて重要なワードのひとつであり、我流で「エネルギーを注入すること」と訳した。何のエネルギーかと言えば、我々を悟らせるための「心」のエネルギーである。このことについては後ほど詳しく解説しなければならないが、要するにこの表題は、「大日如来が姿を変えながら自らのエネルギーを変換させて我々を悟らせる教え」ということである。
「大日経」は善無畏(ぜんむい)三蔵が漢訳した全七巻三十六品がある。日本の真言密教はこの善無畏訳が重用されている。「品(ほん)」は第〜章ということで、ここで訳出したのは、第一章の
「入真言門住心品」
である。「真言の門に入る心の在り方を説く章」というような意味である。実はこの第一章が「大日経」全体の教理のほとんどを説き明かしているのであり、以下の三十五章はその応用編というべき儀軌(その経典独自の具体的な修行法や曼陀羅の描き方などのマニュアル)の部門である。だからこの第一章の「入真言住心品」が「大日経」全体の最も重要な教理を解く鍵となる。
で、この住心品(※略称)には何が説かれているか、と言えば「悟りに至るための心の在り方」である。この章では、そのことをしつこいほど微に入り細に渡り、徹底的に説き明かしている。すべては「心」なのだ、と説いているのである。ではそのことを、これから見てゆこう。
[本編の解説]
まず、仏教経典のお決まりの構成というものがある。いつ、どこで、だれが、だれに、なにして、どうなった、という5w1H的な定形である。
「如是我聞(にょぜがもん)」・・このようにわたしは聞きました
というのが一番最初に来る。それが仏典のスタンダードになっている。この「わたし」がこれから見聞きしたことをお話しします、という形式になっている。そもそもお経の始まりは、お釈迦さまの教説であり、そのお釈迦さまの教えを聞いて覚えていた弟子が、お釈迦さまの入滅後、それを長く世に残すために他の弟子たちと唱和したことが始まりである。具体的には、最期までお釈迦さまの付き人をしていた「多聞第一」と言われたアーナンダ(阿難尊者)のことであり、彼が聞いたお釈迦さまの教えがお経となったのである。
それが大乗仏教の時代になると、実に様々な経典が出現し、教えを授ける教主も、お釈迦さまから阿弥陀如来や毘盧舎那如来と幅広くなり、やがて密教時代になると大日如来に変化するようになる。それに従って「このように聞いた」というその語り部も変化することになるのである。
で、「大日経」で「このように聞いた」という語り部は誰なのか、ということになる。密教では「それはあなただよ」と言っている。「あなたが、今、ここでこうして大日如来の教えを聞いているんだよ」ということである。これが変幻自在に在り方を変える密教の真骨頂なのだ。
で、その「あなた」とは誰か、というと、それは金剛薩埵(こんごうさった)である。金剛薩埵である「あなた」が大日如来の教えを直接聞いて、こうして語ったのが「大日経」なのだ、ということ。さらに言えば「あなた」が本経に登場するには、文章の構造上、必然的に「わたし」という表現に変わらなければならない。つまり「あなた」という客体が「わたし」という主体に変化していることになる。「あなた」は「わたし」であり、「わたし」は金剛薩埵、という定理が、いつの間にか成立していることになるのである。実はこれが密教の言う「神変」という摩訶不思議な意識の変化の在り方なのだ。金剛薩埵については、また詳しく話さなければならないが、とにかく「あなた」すなわち「わたし」が見聞きしたことが「大日経」に説かれている、とまず意識を変えてこの密教経典を読み説かなければならない。これが密教なのである。
では「わたし」はどこで大日如来の教えを聞いたか、ということになる。それは大日如来が自ら「三密」の瞑想をして、そのエネルギーによって建造した「金剛法界宮」において、ということ。
「三密」とは、密教の最も重要な理念であり、ブッダの身体活動(身)と言語活動(語)と精神活動(意)の三つのことを言う。そしてそのブッダの三つの活動のエネルギーを、自らの身体活動、言語活動、精神活動に注入して、ブッダとひとつになることで最高の叡智を獲得し、その能力を自分のものとする修行を「三密加持(さんみつかじ)」という。具体的には手を組み合わせてそのブッダを象徴する形を作り(これを印契という)、口にそのブッダを象徴する真言を唱え、心の中でそのブッダとひとつであることを思念する行である。「三密瑜伽(ゆが)行」という言い方もするが、それは「三密加持」の行がひとつの瞑想行であることを示している。
つまり大日如来は、この「三密」の瞑想によってエネルギーを放出することで「金剛法界宮」という宮殿を建造した、ということである。「金剛」とは、ダイアモンドのように永遠不滅に輝き続けるもののことであるが、しかしダイアモンドではない。これは喩えであって、それは物体ではなく、ブッダの精神エネルギーそのものであり、そして我々の心に潜在的に持っている、眼には見えない悟りのエネルギーを指している。「心の光」みたいなものと理解してもいい。「法界」は宇宙のことを言う。しかしこれも私たちが認識している宇宙ではない。宇宙を身体とする大日如来の世界、言わば悟りの宇宙のことである。私たちからは見えない悟りの宇宙のこと。その悟りの宇宙に、大日如来は自らの「三密」のエネルギーを放出することによって、広大な宮殿を建造した。それが「大日経」の舞台となる。その「金剛法界宮」の中央には、摩尼宝珠(まにほうじゅ)という、どんな願いも叶えるドラゴンボールのような宝の珠に豪華に飾り立てられた「大楼閣」が聳え立っていた。それは高すぎてとても見えない。当然である。悟りの宇宙にあるそれは、悟ったものにしか見えないのである。
その中心に、大日如来は菩薩たちの体を獅子座として座っていた。凄い光景である。獅子座は頂点に君臨する法王が座る座であるが、それが菩薩たちとなると、何とも尊大な印象を受ける。しかしこれは大日如来が尊大な訳ではなく、大日如来をひたすら慕う菩薩たちが、自ら喜んで彼を支えている光景だと理解しなければならない。それほど大日如来は凄い方だということ。
さて、この「金剛法界宮」の落慶記念パーティーには、数多くの資格者が参集した。資格者とは、このパーティーにお呼ばれされるべき資格を持ったものであり、少なくとも大日如来の説法を直接聞ける高次元の存在たちである。で、その中のひとりが「あなた」なのだと自覚しなさい、ということになる。そのパーティーにお呼ばれされたものは、まず十九人の「金剛を持つもの」たちである。それは「執金剛」とか「持金剛」とかと表現されているが、先ほども述べたように、『ダイアモンドのように永遠不滅に光り輝く悟りのエネルギーを「心」の内に持つもの』のことである。よく金剛杵なんかを手に持っている仏像や仏画、あるいは密教の坊さんがいるが、それはあくまでも象徴であり、本来は「心」の中の悟りのエネルギーのことである。
その「金剛」という悟りのエネルギーを心に持つ「執金剛」の筆頭が、「金剛手秘密主」である。「大日経」ではそう名づけられているが、一般には金剛薩埵のことを指している。金剛薩埵は、密教において最も重要な人物である。大日如来の直接の弟子であり、大日如来に直接質問を投げかけ、その教えを聞いて法を説く立場にあり、まあ、例えて言えば学校で一番の秀才であり、全学生を束ねるリーダー、生徒会長のような存在。なおかつ大日如来の後継者となるべき存在であり、しいては密教修行者の理想、目標となる存在である。密教の修行者は、修行道場に入る時、「我は金剛薩埵なり」と心に念じることを努めている。「あなた」すなわち「わたし」は金剛薩埵なのだと自覚しなさい、ということである。
この金剛薩埵を筆頭とする十九人の執金剛たちの他にも、微塵の数ほどの、つまり数えきれない数の持金剛、そして普賢菩薩を代表とする四人の大菩薩が控えていた。そうした無数の聴衆の前で、大日如来は法を説かれた。その教えとはこうである。
如来の持つ「三密」という、あらゆることを成し遂げる能力は、実は誰にでも備わっているのだ、ということ。
その「三密」のエネルギーは絶え間なく放出されているが、それは決して増えたり減ったりするものではなく、永遠不変に放出され続け、あらゆる時空間を超越して、生きとし生けるものの世界に行き渡り、真理の言葉「真言」の教えを広めているのだ、ということ。
そして大日如来は、様々な菩薩の姿に変身し、広くあらゆる方向に、清らかな真理の言葉「真言」の法則を宣揚している、ということ。
その法則とは、悟ろうとする心「菩提心」から始まり、心の十の修行段階「十地」を経て、次第に喜びと満足感を得たものは、悪い煩悩の種を幾世代にも渡って撒き散らすものに変わって、より良い種を世の中の全体に撒くのだ、ということ。
まことに有り難い説法である。ちなみに「十地」については本章では解説されていない。これは密教経典が成立する以前に説かれた教えであり、まあ、知ってて当たり前、というスタンスである。従って、ここでも解説は省く。菩薩が行う十の心の修行階梯だと覚えておけばいい。
さて、ここからが実は本論である。今まではそのプロローグ。大日如来さまが、こうした有り難い教えをひと通りお説えになられたその時、いよいよ主人公の登場となる。
[本論・「三句の法門」の解説]
この時でした。「わたくし」こと金剛手秘密主(金剛薩埵)は、大日如来さまにこう質問しました。
どんな質問かというと、要するに、如来の最上クラスの智慧「一切智智」を得るにはどうすればいいのか、その「一切智智」によって法を説くのは何故か、そしてその「一切智智」を得るためには、何が原因(因)となり、何が根本理念(根)となり、何が究極の目的(究竟)となるのか、ということ。何とも大それた質問である。それでも大日如来さまは、むしろ「わたし」秘密主を『善きかな、善きかな』と、とっても褒めてくれて、喜んで質問に答えてくれました。
『よいか、よく聞きなさい、秘密主よ。菩提心(悟ろうとする心)を因とし、大悲(衆生を哀れみ慈しむ心)を根とし、方便(衆生を悟りに導く手立て)を究竟としなさい』
この「三句の法門」が、「大日経」のメインテーマである。
まず悟ろうという意志がなければ、そもそも悟ることは出来ない。当たり前ではあるが、往々にしてその当たり前に気づかず、目的すらも忘れてしまうことがある。何よりも、何をしたいのか、という目的意識を明確にしなければ、目標を達成することは出来ない。その固い決意が何よりも重要になる。これが「因」である。
目的に向かって努力するに当たり、心掛けておかなければいけないのは、何の為に悟るのか、ということである。自分をブッダという高次の精神状態に置くことで、至高の智慧と幸福感を得るため。確かにそうだろう。ただ、仏教の悟りとは、独り善がりの幸福感に満足するだけでは済まされない。他者に惜しみない慈しみと愛情を傾け、救いの手を差し伸べようとする心、慈悲心が原動力となってこそ、本当の悟りに到達出来る。それが根本理念「根」となる。
そして、悟ることの究極の目的は、他者を救うことである。慈悲心がその原動力なら、目的は他者救済ということになる。様々な方法(方便)を用いて、困苦に喘ぐ多くの他者を悟りに導くことこそ、仏教の究極の目的なのだ。そのことを決して忘れてはならない、と大日如来は「わたし」に諭していることになる。
さらに大日如来さまは続けて「わたし」にこう説かれました。
『秘密主よ。悟りとはなにか。それは自分の心をありのままに知ることである。この至高の悟りの境地(阿耨多羅三藐三菩提)は、他の教え(外道)ではほんの少しも解らないだろう。どうしてなのか。それは宇宙そのものが悟りの世界だからである。これを知る者、また聞かせてみせる者は、外道にはひとりもいない。なぜなら、悟りとは姿なきものだからである。
秘密主よ。あらゆる現象は本来、姿なきものである。それこそが、宇宙そのものの姿なのである』
「大日経」の教え、ここに極まれり、といった感がある。
悟りとは、ずばり、自分の心をありのままに知ること。何とも明確な答えである。さらに宇宙そのものが悟りの世界であり、悟りとは姿なきものである。あらゆる現象は本来、姿なきものであり、それこそが宇宙そのものの姿なのである。何の淀みもなく、論理の矛盾もなく、異論を差し挟む余地もない。これこそが密教の真髄なのだ、と感嘆する他ない。もうこれで「大日経」を読破したくらいの想いになる、究極の一文である。
だがそうもいかない。誰よりも金剛薩埵が納得していないのだ。「わたし」が大日如来さまに質問したのは、最上の智慧「一切智智」を得るにはどうしたらよいのでしょうか、ということだったのに、いつの間にか世尊は悟りの話をされている・・内心、納得いかなかったのだろう、金剛薩埵は改めて大日如来に問い掛ける。
[各論一・「初法明道」の解説]
世尊よ、どのようにしたら最上の智慧「一切智智」を得ることが出来るのでしょう。この金剛薩埵の問い掛けに、大日如来はまたも明確な回答をする。
『秘密主よ。悟りに至る最上の智慧は、自らの心に尋ね求めよ』
つまり最上の智慧を得るには、まず悟りを得なければならない。何よりも「因」である悟ろうとする心「菩提心」がなければならない。その上で、最上の智慧を得るには、最初の質問で答えたのと全く同じように、自らの心に求めよ、ということになる。あくまでも大日如来は、「心の探求」が重要なのだ、と説いているのである。
心は清らかである。なにものにも染まらない。心は外にも内にもその中間にもなく、どんな色もしていないし、世界のどこを探しまわってもない。異世界のものでもないし、感覚器官で捉えてようとしても捉えられない。見えないし、現われもしない。
それはどうしてか。姿なきものである心は、あるとかないとかの判断を超越しているからである。なんとなれば、それは「空」と同じだからである。心が「空」と同じであるということは、それはすなわち、悟りと同じであるということである。このように秘密主よ。心と「空」なる宇宙と悟りには、全く違いはないのである。と、結論付けている。
心も「空」も悟りも同じこと。これはどういうことなのだろうか。ブッダの悟りの本質が「空」なら、悟りを得るために求める心は、つまり「空」ということになる。だから悟ろうとする心「菩提心」とは、つまりは心を探求することであり、心が「空」であると気づくことに他ならない。そのためには、他者に対する慈しみの心(悲)と他者を救うための手段(方便)が根底になければならない。諸君、もし悟りとは何かを知りたいのなら、己れの心を知るべきである。つまりこういうこと。素晴らしく明快である。
ではどのようにして己れの心を知るべきか。それは現象と意識を実体として捉え、それを線引きして差異を認め、独立した実在としての「我」を設定し、それに執着して所有の概念を生み、自我意識を持つことで他者と対立するような、そんなすべてのものごとを差別化する中に求めても、決して心を知ることは出来ない。
大日如来は、ここで求道者である菩薩が目指す道として「初法明道」を提示する。「初法明道」とは、悟ろうとする心「菩提心」を抱くことで、悟りの道が明らかになる。もっと言えば、悟ろうと思った時から、すでに悟りの道は開けている、悟りへまっしぐら、ということ。菩薩はこの「法明道」の教えに従って学び修めれば、長い間苦しい修行をしなくても、修行の妨げとなる様々な障害を克服出来るだろう。そしてこの「法明道」を自らのものとすれば、神通力を獲得し、真言の霊力を得られ、諸仏諸菩薩に守られ、除霊や浄霊に際してそこから霊障を受けることがなく、さらに宇宙中の生けるものを救うことにも疲れを知らず、あくまでも自分の心に従って自然に生きるという仏教の戒めを守ることで、邪なものの見方を離れ、正しいものの見方を獲得出来る、という。さらに言えば、信仰の力(信解力)でブッダのあらゆる教えを我がものに出来る。要は、「初法明道」に邁進すれば、限りない功徳を得られる、ということ。
何とも有り難い「初法明道」。これも心を求める修行をしたからに違いない。心の修行に熟達すれば、悟りへまっしぐら。神通力だってマントラ(真言)の霊力だってお手のもの。ちなみに神通力は五種類あって、天眼通は見えないものを見る能力、すなわちクリア・ヴォヤス。天耳通は聞こえないものを聞く能力。他心通は人の心が解る能力、すなわちテレパシー。宿命通は過去のあらゆることを知る能力。如意通はどこへでも自由に行き来出来る能力、すなわちテレポーテーション。これらの超能力が身につくと同時に、マントラ「真言」を唱えることで霊力が自分のものになるのなら言うことない。
こんな功徳があるのなら、「初法明道」喜んで修行させてもらいます。となる訳だが、これは冗談ではない。お釈迦さまの時代から五神通は説かれていたし、実際、こうした能力開発は不可能ではない。この話をすると長くなるので割愛するが、何しろそのために絶対に必要なことは「信じること」である。そもそもこうした能力があることを疑っていては無理に決まっているし、神仏のお力を信じられなければ話にならない。神や仏、諸仏諸菩薩を信じ、その霊力を徹底的に信じること。それが神聖な力を齎らす。これを信じる力「信解力」というのである。
仏教ではこうした超能力が身につくことを「成就」あるいは「悉地」(シッディの音写)というが、ただし、この能力に憧れ、固執し執着すると道を誤る。あくまでもそれは悟りを目指す修行過程で身につくものであり、目的は徹頭徹尾、悟りである。つまり何よりも悟ろうとする心「菩提心」が重要だということだ。「初法明道」の教えも、だからこんな能力が身につくよ、こんな功徳があるよ、と言って我々を悟りに向けさせる手立て「方便」であることを、あくまでも肝に銘じておかなければならないだろう。だが大日如来がここで「初法明道」の話を持ち出すことで、論旨が外れてきた。ここは修正しなければならない。ということで、金剛薩埵が新たな質問に挑む。
[各論二・「順世の八心」の解説]
『世尊よ。心が「空」だとして、ならばどのようにすれば「わたし」の心に悟り心が生まれるのでしょう。
またどのようにしたら、悟ろうとする心「菩提心」が発したと知ることが出来るのでしょう。
それを自覚するにはどうすればよいか、心のほんとうの姿を知るにはどうすればよいか、そして如来に備わった、その本来の智慧(自然智)についてお聞かせください。
あらゆる魔を退けた勇者であられる仏よ、どうして生きるものの煩悩心は次々に生まれてくるのでしょうか。
また煩悩のいろいろな現われ方と、またどのような段階を経て心は進化するのかを、願わくば仏法に照らし、広く説明してください。
どのように修行すれば、数々の功徳を得ることが出来るのでしょう。
また世俗の凡夫の心と、修行者の殊勝な心とはどのような違いがあるのか、大聖者であられる世尊よ、どうかお聞かせください』
立て続けの質問である。金剛薩埵は興奮状態にある。何よりもまず、偉大な世尊より直接教えを賜わることの喜び、そしてあまりにも明瞭な世尊の答えに、今まで心に貯めていた疑問を一気に吐き出す想いである。この金剛薩埵の、詩(偈)の形式による矢継ぎ早な質問に、大日如来も詩(偈)の形で答える。
『善きかな、仏の真(まこと)の子
よくぞ迷えるもののため、広き心で問いたもう
されど問われしこの教え、けだし勝れて最上の
極めて貴重なものなりて、それは諸仏の大秘密
心がいかに生まれしか、そは外道にはつゆ知らず
我は偈にして解き明かす、ひとつ心で聞けよかし
愚かな凡夫の心には、百六十もの心あり
そを踏み越えた暁に、無上の功徳が生まれくる
功徳の性は堅固にて、悟りはここより生まれたり
無量なることその功徳、虚空の如しと覚えかし
世の穢れにも染まらずに、常にぞ在りしものなりき
いかな邪教がありとても、揺らぐことなきその性は
寂静にして清浄で、姿も形もなかりけり
無量の智慧を得たならば、この上もなく勝れたる
正等覚なる御仏の、悟りの華ぞ咲き誇る
仏の供養の行なせば、これより汝の心には
悟りの心菩提心、生まれしものと知れよかし』
というような極めて我流の定型詩で纏めてみたが、要するに、我々のような愚かな凡夫には、百六十ものダメダメな心があり、それを克服すると、モノ凄い功徳がある。その功徳は悟りへの切っ掛けとなるものであり、世の穢れや仏教以外の誤った教えに染まらず揺らぐことなく、静寂で清らかで、姿も形もないものである。つまり「空」なのである。この「空」という最高の智慧を自分のものに出来たなら、正等覚という絶対的な悟りの境地に至ることが出来る。そして仏への供養の修行をすることにより、そこから初めて悟ろうとする心「菩提心」が芽生えるのである、といった内容になる。でも何を言っているのか、この段階ではよく解らない。
この偈(詩)の次に大日如来は、またしても自我と実体に執着して差別を生む外道(仏教以外の思想哲学)の教えでは、自己の本当の心の在り方に気づかない、と批判をしておいて、世間に広まっている仏教以外の思想・哲学・宗教の名前や教説をひとつひとつ挙げている。「時と、地等の変化と、瑜伽我と、建立浄と、不建立無浄と、あるいは自在天、もしくは流出及び時と、もしくは尊貴と、もしくは自然と、もしくは内我と、もしくは人量と、もしくは遍厳と、もしくは寿者と、もしくは補特加羅(ふとから)と、もしくは識と、もしくは阿頼耶(あらや)と、知者、見者、能執、所執、内知、外知、社怛梵(しゅとばん)、意生、儒童、常定生、声顕、非声」以上29種類の外道(仏教以外の諸説)があると、大日如来は説いている。
これらはお釈迦さま当時からインド各地で興隆していた思想や哲学や宗教の類いであり、仏典にも六十二見とか六師外道とか九十六種外道とかと名を挙げながら批判している。それらはおそらくヒンドゥ教が仏教を凌いでいた密教の時代にも一部残り、さらにバラモン教のベーダ哲学から生まれた六派哲学とも、密教は対抗しなければならなかったと思われる。それらには種々様々な思想形態があるが、それらもそれぞれに自説を展開し、他の思想と批判し合っていたのは充分に予測がつく。ただし仏教及び密教には、それらの思想形態に共通する批判材料があった。それが我執である。
「我」といっても、我々が認識している自我の観念とは限らない。仏教の基本理念「三法印(四法印とも)」のひとつに『諸法無我(しょほうむが)』があるが、それは、あらゆる存在には実体はない、という意味であり、この場合の「我」は、つまり実体のことを言う。我々が個物として固定化して見ているものは、実はそこには実体はなく、絶えず流動変化する現象に過ぎない、というのが仏教のテーゼなのである。「我」は実体を表していて、すなわち「我執」とは『実体のないものを実体があると思い込み、それに執着する愚かな心』ということになる。
例えば六派哲学のひとつウパニシャッド(ヴェーダーンタ)哲学では、我々の内に「我(アートマン)」という実体を想定し、宇宙の根本原理であるブラフマンという実在者との合一(梵我一如)を図るものであり、また同じく六派哲学のひとつサーンキャ哲学では、我々の内に「神我(プルシャ・純粋精神とも)」を想定して、現象を生み出す実体である根本物質プラクリティーからの解脱を図ろうとする。その他の思想も、概ね根源的な実体を想定して論理を展開しているのであって、実体は存在しない、すなわち「無我」の立場を取る仏教にとって、それは総括的な批判対象になるのである。
一切の執着から離れることを目指す仏教にとって、こうした他の哲学思想が実体を想定してそれに執着することは、自他の差別を生み解脱を阻む、まさに愚かな行為となる。こうした視点から本経を読み解かないと、何が何だかチンプンカンプン、返って読み違いをする可能性もあるのである。
しかし大日如来は、これらの外道の思想を取り上げ批判した後、
『このような我を前提とした差別を生じる教えであっても、古来よりそれなりの差別に応じた真理によって、世俗一般のものを解脱に向かわせようとする意図は認められるのである』
と今度は一転、これらの諸説を肯定するような言い回しをする。大日如来さま、何を言ってるの?・・ってなるかも知れないが、それは順を追って読み解くと、あっ、なるほど・・と納得するようになる。そもそも西洋哲学と違って、東洋哲学は帰納法である。結論を先に述べて、後から注釈をつける手法だから、最後まで聞かなければ解らない。だから最後まで、黙って大日如来さまのお説法をお聞ききしましょう。
で、次に大日如来は金剛薩埵にこう述べる。
『秘密主よ。愚童凡夫の類いは、まさに羝羊(牡羊)のようなものである。しかしある折に、その頭に真理の光明がチラッと光る時がある。それが自斎(食事を午前中だけにして、午後は摂らない行事)である。この自斎という行為に、彼はちょっとした喜びを感じ、それを度々続けるようになる。秘密主よ。これが善行の種子が初めて生まれた、つまり第一段階の「種子発生」である。
またこれを契機として、六斎日(月に6回、自斎を行うこと)には、父母や男女の親戚に施しをするようになる。これが第二段階の「牙種(芽が出始める状態)」である。
また次にこれを契機として、親戚ばかりではなく社会全体に施しをするようになる。これが第三段階の「苞種(芽が出て土から顔を出す状態)」である。
また施しを徳の高い人や才能のある人にするのは、第四段階の「葉種(葉が繁り出す状態)」である。
またこの施しを芸術家や高貴な人に喜んで与えるのは、第五段階の「敷華(華が咲いた状態)」である。
そしてついに親愛の籠もった真心からの行為となる。これが第六段階の「成果(実をつける状態)である。
秘密主よ。こうして戒を守り功徳を積んだ彼は、何度か生まれ変わるうちに、ついに天界に生を受ける。これが第七段階の「受用種子(実が弾けて種を撒く状態)」である』
その天界で、彼は善き友と出会い、その友からこう言われる。「もし君が天の神々に真心を持って供養し敬い奉るなら、全ての念願は叶うだろう。その神々とは・・」と善き友人は都合34神の名を挙げる。その言葉に歓喜した彼は、喜んでその神々に供養を捧げ心から敬い、その教えに従って修行に励むようになる。これが第八段階の「嬰童心(純粋な幼児の心)」である、と大日如来は説かれる。
これが「順世の八心」と呼ばれる、一般世俗の心の進化の八段階である。
で、この「順世の八心」は、まず羊羝(牡羊)のような愚童凡夫、つまりただ飲んで食って仕事して、暇さえあれば低俗な遊びにうつつをぬかすだけの家畜もどきの愚かな連中、要するに我々のことであるが、そんな最低最悪な連中が、ある時、フッと頭に光明が射すように、自斎を初めてみようかな、と思い立つ。
自斎とは前述したように、午前中だけしか食事をしない一種の修行である。仏教ではお釈迦さまの時代から、出家修行者は午前中だけ食事を摂ることが戒律になっている。その意味は飽食を慎み、身を清めて修行に邁進するためだが、現代日本の仏僧の中に、僧侶資格を取るための一定の修行期間以外に、この戒律を守っているものがいるとは到底思えない。私を含め、たまに断食行をする修行者はいるが、毎日斎食(さいじき)をしているものは、少なくとも私の知っている範囲では見当たらない。かく言う私もそうである。
かたや戒律の厳しいタイやカンボジアなどの上座部仏教では、しっかり斎食の戒を守っているから、そこは我が国の仏僧も多いに反省して見習わなければならない、と言いたいところだが、私が若い頃、しばらくの期間、瞑想の修行をさせて頂いたミャンマーのとある寺院では、非常に恰幅の良い、はっきり言えば肥満タイプのお坊さん達が、朝から肉や魚をたらふく食べ、午後は食事はしないまでも、お菓子や果物を頬張っている光景を見るにつけ、戒とは何かを考えさせられたものである。実際、タイの仏教界では、僧侶の肥満が問題になり、肥満対策として各寺院にダイエットを推奨させているとのこと。これでは大日如来に愚童凡夫の家畜もどきと怒られても、何も言い返せないのが世界の仏教界の現状である。
と、話が大きく逸れてしまった。時を戻そう。
自斎は出家者の戒ではあるが、在家の信者もそれに習って行うことがある。それは午後の食事を抜かして食費を浮かせ、その分を貧しい人や出家修行者に施す、つまり布施行をするためである。仏教に限らずインドではそれがひとつの風習になっていて、その布施行によって功徳がつめるとされている。
ここで述べられているのは、愚童凡夫がある時に自斎に目覚める、この時から牡羊(家畜)の心でしかなかった彼が喜んで布施をしようとする心に進化した。これを「順世の八心」の最初の段階「種子発生」という。要点は、ただ自斎をすることではなく、あくまでも布施をする心の変化にある。そして彼は、まず自分の両親や親戚縁者など、近しい人達に布施を始める。これが「順世の八心」の第二段階「牙種」つまり芽生えである。家族が喜ぶ姿を見て、何だか楽しくなってきた彼は、身内ばかりではなく、今度はよその人にも施しを始める。これが「順世の八心」の第三段階「苞種」つまり土から芽が出た状態である。今度はその布施を、徳の高い人や才能のある人にもするようになる。これが第四段階の「葉種」つまり葉が繁り始める状態である。さらに今度はその布施を、芸術家や高貴な人に喜んでするようになる。これを第五段階の「敷華」つまり華が咲いている状態という。そのような布施行を続けているうちに、彼はそれを真の喜びを持って思いを込めて行うようになる。これを第六段階の「成果」つまり実が成る状態という。
とここで、違和感を抱く人もいると思う。貧しい人に施しをするのはすごく解る。でもなんで徳の高い人とか才能のある人とか芸術家とか高貴な人とかに施さなきゃなんないの?・・彼らは当然お金持ちだろうし、そうじゃなかったとしても才能があったり有名な芸術家だったりするなら、いつかは自分で充分食べていけるだろうし、まして特権階級の高貴な人に施しする義理はないし、逆にこっちが施しして欲しいくらいだわ・・と女性口調で反論を述べてみたが、確かにそう思う人も多いだろう。
ただ、この点は日本人の感覚とインド人の感覚のギャップというべきところ。日本人ばかりではなくほとんどの外国人が、敬虔な仏教徒は別にして布施の意味を理解していないということ。布施はひとつの修行であって、誰にであれ布施をすることで功徳を積むことになる。だから布施をする側が布施をされる相手に対して、ありがとうございます、と頭を下げる。これが布施の精神である。布施は何も物を上げることばかりではない。仏教には「財施」と「法施(ほっせ)」と「無畏施(むいせ)」という三種類の布施の形がある。「財施」は文字通りお金を含めた物品を布施すること。「法施(ほっせ)」は法話や読経による供養や祈祷やお祓いなど、主に仏僧がする眼には見えないが相手に功徳をもたらす布施を言う。相手を喜ばせたり楽しませたり勇気を与えたりすることも「法施」だと思っていい。最後の「無畏施(むいせ)」は、相手の不安や恐れを取り除いて上げること。だいじょうぶ、心配ないさ、とひと言言って上げるだけでも立派な「無畏施」になる。だから相手を喜ばせたり勇気づけたり慰めたりすることは、みんな布施になる。自分の功徳を積むことになるからである。
このシーンに登場する彼こと元愚童凡夫は、次々に布施の修行をすることで功徳を積み上げ、心を進化させてゆくのだが、ここで勘違いして欲しくないのは、大日如来は、何もお金持ちや特権階級に布施をしなさい、と言っている訳ではないことである。徳の高い人を裕福で何不自由のない老人のようにイメージするかも知れないが、若くても人々を思い遣り、慈しみ、世のため人のために自分を差し置いても尽くそうという人は大勢いる。どこへでも率先してボランティア活動に出向く方をテレビで見たことがあるが、こういう人こそ徳の高い人と言うのではないだろうか。確かに高い徳を持っている人がお金持ちになることは多いだろう。だからと言ってお金持ちだから徳が高いとは、口が裂けても言えない、とあなたも思っているに違いない。どうだろうか?。また政治家のお偉い先生方を、本当に偉いと思っている人が、この世に何人いるだろうか。一度聞いてみたいものである。そうゆう連中にせっせと御歳暮やお中元や付け届けなんかで気に入られようとするのは(政治家は表だっては収賄になるので裏側でこっそりと)、私利私欲や利権や既得権益を守ろうとする輩のすることで、間違っても布施ではないことは覚えておいて欲しい。高貴な人も特権階級ではない。むしろ逆である。貧しい庶民の中でも、高潔で清廉さと気品を持って凛として生きている人はいる。芸術や芸能の世界で生きている人は、人々を楽しませ、時には勇気を与える貴重な布施の行をしている。こうゆう人に布施をすることが功徳になるのである。決してヲタクが好きなアイドルちゃんのためにCDの前売り券を何十枚も買うことではないので、くれぐれもお間違いなく。と、またしても話が大幅に逸れてしまった。時を戻そう。
在世で自斎と布施の修行を積み重ね、その素晴らしさと喜びを知った彼は、やがて天界に生まれる。これが「順世の八心」の第七段階「受用種子」(実が弾けて種を撒く状態)であることはすでに述べているが、彼はそこで「善き友」と巡り合い、神々を敬い奉り、供養を怠らず修行をすれば、全ての願い事が叶う、と教えられ、喜んでその修行に邁進する。これを「順世の八心」の最終段階「嬰童心」(純粋な幼児の心)という、と大日如来は結んでいる。では、この「善き友」とはいったい誰なのか。
これは大日如来が彼を導くために変身した姿だ、と捉えられなくもない。そう解読する注釈もあるが、私は違うと思っている。「善き友」とは、外道の指導者。そう思っている。なぜか。コンテキスト(文脈)をよく読み解けば、こうゆう結論に達するのである。えっ、と意外に思うかも知れないが、実はここまで彼を導いてきたのは、大日如来でも仏教指導者でも密教指導者でもなく、大日如来が今まで痛烈に批判してきた外道の教えなのである。在世の時は彼にインスピレーションを与える影の存在だった外道の指導者が、天界において姿を現し、「善き友」として彼を直接指導する、そうゆうストーリー展開になっているのである。どうしてそんなことが言えるのか、というと、この「順世の八心」を説く直前の大日如来の言葉を思い出せば解る。大日如来はその時「差別を生む外道の教えも、ある程度の真理をついているから、俗世一般のものを解脱に導くという意味においては、まあ、そんなに悪くないよ」と言っいるのである。大日如来は、批判の対象である外道の教えを、世俗一般を導くという意味においては、その価値を認めているのである。つまり、俗世一般の、愚童凡夫というどうしようもない人間を、天界で修行させるまで進化させたのは、まあ、そんなに悪くない外道の教えということになる。
しかし、外道の教えの有効性も天界レヴェルまでである。というのも、その外道の教えというのは、ヒンズー教や、もっと広い意味でキリスト教やイスラム教やユダヤ教という宗教のことであり、神さまを信仰しましょう、という、つまり天界レヴェルまでの教えということである。そしてここからが本当の仏道修行者が歩む心の修行となる。「順世の八心」の最終段階が「嬰童心」(純粋な幼児の心)という言うのはその意味である。
次に、大日如来は、金剛薩埵にこう告げる。
『秘密主よ。次に彼らの中において、殊に勝れた心を持つものが現れ、解脱を求めようとする智慧が生じる。しかし彼が求める悟りは往々にして、「常」も「無常」も「空」である、といっしょくたにしていることである』
晴れて天界に生まれ、神々の加護を受けながら幸せいっぱいになって神々に供養し、神々の教えに従って修行することに満足していたものの中から、そんな天界での幸せ感に浸っていることに次第に満足出来なくなり、もっと高みを目指そうとする大変勝れた心を持つものが現れ、そんな彼の中に解脱を求めようとする智慧が生まれる、とそんな解釈になる。誰でも天国は素敵なところと思っているに違いない。パラダイスである。天にも昇るような気持ちを仏教用語で有頂天というが、キリスト教もユダヤ教もイスラム教もヒンドゥ教も道教も儒教も日本の神道も、世界のあらゆる宗教は、天国を最高の理想郷としている。ところが仏教はそうではない。仏教の教えに「六道輪廻(ろくどうりんね)」と言うのがある。我々生きているものが生まれ変わり死に変わりしながら巡る六つの世界のことをいう。下から順番に、最下層の最悪の世界である「地獄界」から始まり、貪欲なものが墜ちる「餓鬼界」、無慈悲なものが墜ちる「畜生界」、闘争心だらけのものが墜ちる「修羅界」、我々の世界である「人界」、そして「天界」。とかく我々は、天国に生まれれば最高、と思ってしまうが、ところが仏教からすると大きな間違い。天国に生まれても、いつかは寿命が尽きて死ぬ。死んだらどこに生まれるか、また天国に生まれれば良いが、人間界になるか、ひょっとしたら地獄に墜ちるかも知れない。すべては自分が行なって来た原因であるカルマ(業)次第、ということになる。だから天国も最高に幸せな世界ではない。「有頂天」になっても、それは一瞬のこと、すぐに辛い現実が待っている。この辛い六つの世界を堂々巡りしているのが私達だということ。ではこの「六道輪廻」から抜け出すにはどうすればいいのか。ここからが仏教の出番となる。要は悟りを開けばいいってこと。悟りを開いてブッダになって「仏界」に行けば、もう六道の世界に生まれなくなり、それこそ永遠の幸福を得られるんだぞ、というのがお釈迦さまの教えである。ただし密教では、お釈迦さまの教えとはだいぶ違う解釈となるが、その点はここでは論じないことにする。で、話を戻すと、「順世の八心」という心の進化過程を経て、純真な赤ちゃんのような心(嬰童心)で、天界で幸せに暮らしていても、結局、本当の幸福は得られないと気づき、悟りを求めようとするものが現れる、という件まで話したと思うが、では彼は何によって悟りを得ようとするのか、という問題に直面する。汚い衣を脱ぎ捨てて生まれたままの純粋で清らかな心になることを「解脱」というが、じゃあ、彼はどの教えに従って「解脱」しようとするのか。天国から卒業して、つまり天界の神々への信仰から卒業して、神さま、今まで本当にありがとうございました、このご恩は一生忘れなせん、でも私は神さまよりも、もっと上の世界を目指して旅立ちます、そう決意して立派な求道心に目覚めた彼にとって、いったいどの道を進めばいいのだろうか。
大日如来は、こんな忠告をする。『しかし、彼らが求める悟りは、だいたいが「常」と「無常」と「空」とをごっちゃにしちゃてるのだ』という。そして、『彼は「空」と「非空」とについて、何も解ってはいない。「空」を「常」と「断」に分けて考え、そのどちらかに偏ってしまっている。それは「非有」と「無有」を、彼は分けることをせずに同じものとしてしまっているからだ。どのようにして「空」を分けることが出来ようか。本来の「空」が解らなければ、とても悟りの境地(涅槃)に至ることは出来ない。だから汝はしっかりと「空」を理解し、「常」と「断」という偏った概念からも離れなければならない』
・・・・。何のこっちゃさっぱりわからん。実はこの文章が本経の中で一番難解である。そもそも「空」という大乗仏教にとって最も重要で深淵な概念を理解していなければ、本当に何も解らない。お手上げになる。
だがここで、とても貴重なヒントがある。この文章は何について書いているのかと言えば、ズバリ、ヴェーダーンタ哲学とサーンキャ哲学という両哲学への批判なのだ。前述したように、本経が批判する仏教以外の思想哲学の中に、バラモン教の聖典ベーダから発達した六派哲学があり、それが当時の密教と論戦を繰り広げていた。特にこのヴェーダーンタ哲学とサーンキャ哲学は両巨塔と言っていい存在で、人気も高く、修学する学生も多数いて、密教にとっては最大のライバルだったと推測される。ではなぜ、ここであえて両哲学を批判しなければならなかったのか、というと、赤ちゃんの心(嬰童心)を持った純真無垢な求道者が、これらの教えに引っ張られてしまう可能性が高かったからに違いない。つまり、彼を天界まで導いたのは外道の教えの功績、つまり神々への信仰心を持たせることだったとしても、さあ、これから本格的に悟りを目指そうとする純心な求道者は、外道の教えから離れて、正しい仏の道に進まなければならないんだよ、というのが大日如来の伝えたかったことになる。
さて、それではこの外道の代表格であるヴェーダーンタ哲学とサーンキャ哲学を、大日如来はどう批判しているのか。
まず「常」と「無常」と「空」をごっちゃにしている、とはどういうことか。「常」とは、永遠不変に存在し続けるもの。ヴェーダーンタ哲学では宇宙の根本原理であるブラフマンという実在者と、そして私達の奥底にあり「わたし」を「わたし」たらしめている実在者アートマン(我)のことであり、サーンキャ哲学では、同じく「わたし」を「わたし」たらしめる実在者を純粋精神プルシャ(神我)と呼んでいる。
「無常」とは、常に流動変化し、生成消滅を繰り返す現象世界を意味し、ヴェーダーンタ哲学では、それを宇宙の根本原理である実在者ブラフマンの幻影として捉え、サーンキャ哲学では、それを根本物質プラクリティーの展開として捉える。
「空」は、これらの哲学にとっても悟りの境地を意味するが、ヴェーダーンタ哲学では、宇宙の根本原理ブラフマンと「わたし」であるアートマンの合一(梵我一如)によって成されるものとし、サーンキャ哲学では、純粋精神プルシャが、根本物質プラクリティーから解脱することによって成されるとしている。
このように両哲学は「常」という実在者を設定し、「無常」たらしめる実在者との合一、あるいは「無常」からの解脱によって「空」に至ると説く訳だが、仏教の立場からすれば、そもそも「常」つまり永遠不変の実在者など存在しない、「無常」もそれは単に現象なのであり、すべては「空」である、その境地に至ることが悟りである、と説く。つまり「常」も「無常」もなく、「空」あるのみ。だから「常」との合一だとか「無常」からの離脱だとか、そんなことを論じること自体、ナンセンスなのだ、とこの一文は述べているのである。そして彼らは、「空」と「非空」について何も解っていない。「空」とは「なにもない」ことであり、「非空」とは「なにもないように見えてもなにかある」ということ。つまり「空」の中に実在者を認めることである。「なにもない」とは「なにもない」ことだから、「なにかある」と考える方がどうかしている。
そして「空」を「常」と「断」に分けて、そのどちらかに偏ってしまっている。「なにもない」ものを、そこに実在者を認める(常)説と、そこに実在者を認めない(断)説とに分かれて論争すること自体が、いかにバカげているかよく考えてごらん。さらに彼らは「非有」と「無有」を分けることをせずに同じものだと思い込んでいる。「非有」は「なにもない」つまり「空」のことであり、「無有」は「実在者はいない」ということである。実在者がいないことが「空」であるのなら、そもそも実在者という存在を認める前提に立っての話になる。「空」は「空」であり、それ以外のなにものでもない。だいたい、「なにもない」ものをどうして分けることができるというのだろう。本来の「空」が解らなければ、とても悟りの境地に至ることはできないのである。君たちも、しっかりと「空」を理解し、実在者がいない(断)とか、実在者がいる(常)とかの、そんなくだらない説に左右されないことである。と、この文面を読み解くことが出来る。
要するに、悟りを志す求道者が陥りやすい他の哲学理論を、「空」という仏教の根本理念を通して論破することで、彼らを仏道という正しい道に導こうという意図がここにある。求道者諸君よ、誤った外道の教えなどに惑わされず、ひたすら正しい仏の道を歩みなさい、と大日如来は我々を諭しているのである。
[各論三・百六十心と違世の八心と出世間心の解説]
ここで「わたし」金剛手秘密主こと金剛薩埵は、先ほど世尊が偈(詩)の形でお説きになった「百六十心」とは何かを質問しました。
すると世尊はお答えになりました。
『秘密主よ、よく聞きなさい。俗人に限らず修行者の心にも、貪心、無貪心、瞋心、慈心、擬心、智心、決定心、疑心、暗心、明心、集聚心、闘心、諍心、無諍心、天心、阿修羅心、龍心、人心、女心、自在心、商人心、農夫心、河心、陂池心、井心、守護心、慳心、狗心、狸心、迦楼羅心、鼠心、歌謡心、舞心、撃鼓心、室宅心、獅子心、鵂鶹心、烏心、羅刹心、刺心、窟心、風心、水心、火心、泥心、顕色心、板心、迷心、毒薬心、羂索心、械心、田心、塩心、雲心、剃刀心、須弥等心、海等心、穴等心、受生心、猿猴心という六十心がある。しかしこれはほんの一例に過ぎない。「貪」「瞋」「痴」「慢」「疑」という五大煩悩を倍にすれば十、それを倍にすれば二十、また倍にすれば四十、さらに倍にして八十、さらに倍で百六十心という数の迷いの心があるのである』と、大日如来さまは申される。何と百六十という途方もない数の迷い心がわたしたちにはあると言う。よくもまあ、細かく分析されたものである。でも、本経の一番面白いところがこの教説である。なお、六十心の詳しい解説は本作の現代語訳の方に書かれているので、参考にして欲しい。また最後の「猿猴心」は、サンスクリット語の原文には抜けていたらしく、「大日経」の訳者の善無畏三蔵が講義した大日経の註釈書「大日経疏」になかったものを、弟子である筆記者の一行が付け足したとのこと。数えたら五十九しかなかったから、ひとつ入れておけ、といったところだろう。まあ、その辺を深く究明しても意味がない。
さて、まず最後の方に説かれている五大煩悩に関してだが、よく知られているのは「貪」「瞋」「痴」の三大煩悩で、これは「貪り」と「怒り」と「愚かさ」を意味しており、百八種類もあると言われている煩悩のうちでも代表格、煩悩の根源であるとして「三毒」とも呼ばれている。そもそも煩悩とは、悪い想いや行いのことで、わたしたちの心に付着した汚れのようなものである。この汚い服を脱ぎ捨てて、清らかな心になることを「煩悩解脱」と言ったりする。ただし、仏教の長い歴史の中で、この煩悩については様々な説が現れ、細かい分析が行われて、その数え方も総数も実にまちまちである。それだけ仏教にとって、煩悩という存在が重要だったということ。ここでは「貪瞋痴」の「三毒」に、「慢」と「疑」を足して五大煩悩としている。「慢」は傲慢。慢心することである。「疑」は疑い。猜疑心のことになる。この場合は、正しい教え(仏教)に対して疑いを持つことを意味している。この五大煩悩を五回二倍すると百六十心になるという訳だが、なぜそうしたのか、その根拠は謎である。
ともかく、ここで取り上げている六十心を見るだけでも、あまりにも自分自身に思い当たるものが多くて、思わず苦笑いの連続となる。主に求道者向けではあるものの、あなたもぜひ、本作の現代語訳にある六十心の解説をひとつひとつ読んでみることをお勧めする。あなたは幾つ思い当たるものがあるだろうか?。例えば「貪心」の後に「無貪心」がある。「貪心」は物事に執着する心であるが、「無貪心」はあまりにも物事に執着しなさ過ぎる心。執着心がないことは良いことだが、なさ過ぎては何に対しても無頓着になり何の意欲もなくなってだらしない生活を送ることになる、それじゃあダメ、ということ。次の「慈心」は慈悲の心を持つことだから一見良いように思えるが、そうではなく、慈悲だの愛だのとそればかり上を向いて念仏のように唱えても浮ついた妄想にしか過ぎないんだから、もっと足もとを見て現実に即した生き方をしなさい、ということ。「智心」は知識欲旺盛なのは良いが、頭デッカチになることで返って真理から遠ざかるよ、ってこと。現代科学の盲点を突いたようなお言葉である。「暗心」は真理までも疑って暗闇に堕ちることだが、逆に「明心」は何にも疑いを持たないアッパラパーのおバカちゃん。明るければそれで良いと思うのは大間違い、ということ。「闘心」は自分が正しいと思うことを主張して何かにつけて人と論争したがる厄介者で、「諍心」は何でもかんでも疑って疑心暗鬼に堕ちる心、反対に「無諍心」はあまりにも単純に人の意見に左右されて自分を見失う優柔不断な心・・とまだまだあと五十種類ある。面白いのは「龍心」と「歌謡心」と「舞心」と「撃鼓心」で、「龍心」は、巨大な資産や財産を投じて大儲けを図ろうとする、金に目が眩んだ大資本家の心。「歌謡心」は歌手が舞台で歌うように、大衆の人気を得ることばかりに夢中になる、政治で言えばポピュリズム(大衆迎合)の政治家のこと。「舞心」は、さも霊能者であることが凄いことだと思い込み、しまいには、我は神なり、などと言い出して躍り上がる心。「撃鼓心」は、自分は凄い宗教家だと思い込んで教理の太鼓を叩いて信者を集めようとする心。どこかの宗教団体の教祖さまに聞かせてやりたいお言葉だ。まあ、キリがないのでこのくらいにしておきたいが、とにかくこの六十心の教説は、思い当たるところが多過ぎて耳が痛いのと同時に、社会の心理をえぐるような痛快さに満ちていて、何度も読み返したくなる。あなたもぜひ、そうしてみたらどうだろうか。ただし、これをネタに、あの人は板心だ、ウチの上司は羅刹心だ、などと人を面白おかしく評価する前に、まず自分が反省し、改めてようとしなければ何んにもならない。本経がわざわざ六十心を列記したのは、わたしたちに現在の心の在り方を思い知らせ改めさせることで、心の進化を促す意図があるからである。では、この百六十心を克服するにはどうすればいいか。
大日如来は続ける。『そのためには「唯蘊無我(ゆいうんむが)」を充分に理解すること。「境(きょう)」と「根(こん)」と「界(かい)」に囚われることなく修行すること。「煩悩」と「悪しきカルマ」と「無明(むみょう)から始まる因縁」という悪しき循環を断ち切ること。「絶対者によって世界は創造されているのだから運命は変えることはできない」という運命論者の愚かな考えから離れること。これによって得られる崇高な境地は、あらゆる外道(仏教以外の諸説)では決して知ることはできない。先仏は、このようにして全ての禍いから離れるのだ、と説いているのである』
大日如来は、ここで仏道修行者に重要な八項目の教えを説いている。まずひとつ目は「唯蘊無我」を充分に理解すること。二つ目は「境」。三つ目は「根」。四つ目は「界」。これらに囚われることなく修行すること。五つ目は「煩悩」。六つ目は「悪しきカルマ」。七つ目は「無明から始まる因縁」、これらの悪しき循環を断ち切ること。八つ目は「運命は変えられないという運命論」に惑わされないこと。こうした全ての禍いから離れるのだ、と先仏は説いている、と大日如来は言う。この八項目の心の修行を「違世(いせ)の八心」と呼んでいるが、「違世」とは俗世を離れることであり、仏道修行者がこれから修得しなければならない心の修行が「八心」ある、ということである。これは前述の「順世の八心」と対応するものであり、俗世での神々への信仰という「順世の八心」の修行段階を終えて、いよいよ本格的な仏道修行者の「違世の八心」の心の修行に移行することを意味している。では、この「違世の八心」をひとつひとつ見てゆくことにしよう。
まずひとつ目の「唯蘊無我(ゆいうんむが)」とは何か。『ただ「蘊(うん)」があるのみで、そこには「我」はない』と訳せる。では「蘊」とは何か。「蘊」は集まりを意味している。集合体と理解していい。何の集合体かと言えば、認識作用における五つの集合体のことである。これを「五蘊(ごうん)」という。「五蘊」は「色(しき)」「受(じゅ)」「想(そう)」「行(ぎょう)」「識(しき)」の五つを言う。
と、ここまで大丈夫ですか?。付いてきてますか?。これ、仏教を学ぼうとする人には避けて通れない、知らなければ先に進めない初級編だからね。いつ覚えるか、今でしょ、ということで付いてきてね。
で、この五つをひとつひとつ見てゆくと、まず「色」とは外界のこと。見えるものや聞こえるものや匂いや味や触れるもののこと。つまりわたしたちが認識する認識対象のことである。「受」はその外界の認識対象をわたしたちが受け取ること。眼で見たり耳で聞いたり鼻で嗅いだり舌で味わったり手で触れたりすること。感受作用と言っていい。次の「想」は、その感受作用によって受け入れた認識対象を想起すること。要するに頭の中でその色や形や音や匂いを思い浮かべること。次の「行」は頭に浮かんだものを、心に落とし込む作用。咀嚼することと思えばいい。最後の「識」は識別作用のこと。「これは犬だ」と判断することである。つまりこうしてわたしたちは外の世界を認識しているのだ、というのが「五蘊」ということである。
で、この「五蘊」という人間の認識作用が、そもそもの苦しみを生むのだ、とお釈迦さまはおっしゃった。これを「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」という。なぜか。我々は「五蘊」という認識作用によって、最終的にものや人を識別し判断する。あれはチワワだ、可愛いな・・あれはドーベルマンだ、怖いな・・あっ、蝶々だ、綺麗だな・・わっ、ゴキブリだ、気持ち悪い・・おっ、美人だな・・なんだ、そうでもねえか・・とこうして同じ動物や人なのに、自分の価値観で判別して見る。この判別がいけない。ここから好き嫌い、良い悪い、綺麗と汚い等々に分別し、好きなものには執着し、嫌いなものは嫌悪する、という差別化が起こる。そして好きなものにはますます執着し、嫌いなものはますます嫌悪する。これが結局、苦しみを生むのだ、ということである。何でこんなややこしいこと、覚えなきゃなんないの、と思われるかもしれないが、これがお釈迦さま当時の、いわゆる初期仏教の細密な分析哲学なのである。
で、さらにややこしい話をしなければならない。仏教に「四苦八苦」という言葉がある。これはお釈迦さまの説かれた重要な教説のひとつで、四つの根本的な苦しみと、四つの具体的な苦しみを指す。最初の「四苦」が根本的な苦しみ、後の「八苦」が四つの根本的な苦しみと四つの具体的な苦しみを合わせた数になる。では四つの根本的な苦しみとは何かというと「生老病死」のことである。まず「生まれる苦しみ」がある。生まれることはめでたいこと。何より両親にとってはこれほど嬉しいことはない。と思うかも知れないが、お釈迦さまはそうではない、という。お釈迦さまは、前述したように、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界という六道の苦しみの世界を生まれ変わり死に変わることから脱却し、迷える人々を悟りの世界に上昇させるために教えを説いたのである。そうであるのなら、そもそも人間界に生まれた時点で苦しみであると捉えなければならない、ということ。二つ目の根本的な苦しみは「老いの苦しみ」。三つ目は「病いの苦しみ」。四つ目は「死の苦しみ」である。説明を加えなくても、これらが逃れられない根本的な苦しみであることは当然解るだろう。
さて次は四つの具体的な苦しみに移る。漢字で書くと「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の四つである。「愛別離苦」は、愛する人やものと別れなければならない苦しみ。「怨憎会苦」は、憎む人やものと会わなければならない苦しみ。「求不得苦」は、得ようとしても得られない苦しみ。「五蘊盛苦」は、先ほども述べたように、我々の認識作用そのものが苦しみを生む、ということ。「愛別離苦」も「怨憎会苦」も「求不得苦」も結局、我々の価値観による差別意識がもたらしたもの、ということになるのである。
で、ここからが本題である。「唯蘊無我」とは、我々にはこの「五蘊」という認識作用があるだけで、そこには「我」つまり実体的な存在者はいない、ということ。実体的な存在者とは、永遠不滅に実在するものを指す。ヴェーダーンタ哲学のアートマン(我)やサーンキャ哲学のプルシャ(純粋精神)などのことだと思えばいい。もし仮に我々の中に、何か自我という実体があって、それが認識作用を司り、物事を識別判断しているとしたなら、苦しみを生む張本人はその自我ということになってしまう。であるとするなら、我々は永遠に苦しみ続けなければならなくなる。これでは解脱や悟りどころではない、ということになる。永遠の実体である自我は、だからそもそも存在していないのだ、とお釈迦さまは言われているのである。そのことを充分に理解するように、と大日如来は述べている。
さて「違世の八心」における二つ目の「境」と三つ目の「根」と四つ目の「界」について。これらはワンセットとして説かれている。「境」は外界の感覚対象である。「色境」「声境」「香境」「味境」「触境」「法境」の「六境」がある。つまり「見えるもの」「聞こえるもの」「匂うもの」「味わうもの」「触れるもの」「その感覚対象を総括するもの」の六つに分かれる。次はその感覚対象を受け入れる感覚器官が「根」で、「眼根」「耳根」「鼻根」「舌根」「身根」「意根」の「六根」である。つまり「視覚器官」「聴覚器官」「臭覚器官」「味覚器官」「触覚器官」「その感覚器官を総括する器官」の六つに分かれている。次が感覚作用の「界」である。これは「境」と「根」をトータルしたもので、「眼識界」「耳識界」「鼻識界」「舌識界」「身識界」「意識界」の六つに分かれる。「境」と「根」を合わせて「十二処」、「境」と「根」と「界」を合わせて「十八界」という。
で、それが何なの?・・ってなるだろう。これを分けたからといって、何か意味があるの?・・その通りである。ではそれをここで明確に答えよう。
これは一種の心の観察である。あるものをじっと見つめてみよう。例えば花にしようか。出来れば耳を塞いで、何も考えず、ただじっと花を見つめ続ける。視覚だけに集中するのだ。何が見えてくるだろうか。また、今度は眼を閉じて、ただ聴覚にのみ集中する。今まで気づかなかった微妙な音が聞こえてくるかも知れない。また、眼を閉じ、耳を塞いで臭覚に集中する。どんな匂いがするだろうか。また、眼を閉じて耳を塞ぎ、何かを食べてみよう。ただし、いつものようにパクパク食べるのではなく、少し口に入れては舌の上でしばらくそれを味わい、なるべくゆっくりと噛みしめてみる。今まで知らなかった味がするかも知れない。そして、眼を閉じ、耳を塞ぎながら何かにそっと触れてみよう。しばらくすると、今までとは何か違う感触が指先から感じるかも知れない。こうやって五感をひとつひとつ、確かめてみよう。その感覚を観察するのである。それぞれにしばらくその感覚を味わっていると、やがて間違いなく短い瞑想状態に入る筈だ。この瞬間、あるいはその直後、何かフッと閃きのようなものが空っぽの頭に入ってきたような感覚になることがあるかも知れない。そして、アッと何かに気づくかも知れない。これを直感、あるいは第六感という。この直感を司る器官が、実は松果体という脳内器官である。で、今までどの仏教研究者の誰ひとり述べていなかったけれど、っていうか誰もそこに気づかなかったことだが、実は総合的な感覚器官「意根」とは松果体のことだったのだと、それは私の直観である。直観は直感ではなく、直感したものを左脳で客観的に分析し判断することである。
こうした感覚の観察もひとつの修行である。ぜひ試してみたらいい。何度かその修行をしていると、次第に見ているものが揺れたりぼやけたり、何か細かい粒子で構成された、ちょうど点描画のような絵にしか見えなくなる。立体感のない絵のようだ。それは眼が疲れたせいだ、錯覚だ、とそうすぐに判断してしまいがちだが、そうではない。それがものの本来の姿なのである。と、かつての修行者もそう直観したに違いない。ある、と思い込んでいたものは、実はないのだ。私が見たり聞いたり嗅いだり味わったり触れたりする、そうした感覚器官で捉えているものは、実は幻想に過ぎないのだ。だから感覚で捉えている現象(境)や、感覚器官(根)や、感覚作用(界)に決して囚われてはいけない、ないものをあると誤った判断をしてしまうからだ、と大日如来は我々にそう伝えているのである。これはおそらく感覚の瞑想をした修行者でなけば解らない。文献を調べ尽くし、膨大な資料を分析して導き出そうとしている学者には、だから大日如来がなぜ「境」と「根」と「界」に囚われてはいけない、と言ったのか、その真意は解らない。悟りは知識で解るものでは決してないのである。
また話が長くなってしまった。反省しながら、また長い話をする。「違世の八心」の五つ目と六つ目と七つ目は、「煩悩」と「業」と「無明からの因縁」である。大日如来は、それらの悪しき循環を断ち切らなければならない、と説いている。「煩悩」は先ほど解説したのでここでは省略する。次の「業」は原語であるサンスクリット語でカルマと言い、本来は行為とか行いの意味だから、実はそれほど深刻に捉えることはない。仏教に限らずインドでは、古来よりこのカルマに宗教的な意味を持たせ、因果応報、つまり悪いことをすれば悪い結果が出るぞ、と脅かすような使い方をするが、単に原因と結果の法則性を説いているのだから、良いことをすれば良い結果になり、何もしなければ何もない、ということになる。ただし、ここで説かれているのは、あくまでも悪いカルマ限定であり、過去から積み上げてきたその悪いカルマの循環を、今生きているうちに修行して断ち切りなさい、と教えているのである。
では、その悪いカルマの循環とは具体的に何のことかというと、それが次の「無明から始まる因縁」ということになる。これを「十二因縁」という。
まず「無明」から始まり、「行」「識」「名色」「六処」「触」「受」「愛」「取」「有」「生」「老死」という悪い循環のこと。またなんのこっちゃ、となるだろうが、これもお釈迦さまの教説とされる初期仏教の重要な教理なので、なるべく我慢して聞いて欲しい。最初の「無明」とは真っ暗のこと。正しい真理を知らない無知蒙昧な者、つまり我々のような者であるが、それが右も左も解らずに迷い込む真っ暗の世界のことである。その世界からカルマのエネルギーによって否応なく母親の胎内に移行する、これを「行」という。やがて受精卵から次第に人の形を形成するようになると、意識が発達する、これを「識」という。そして六根、つまり感覚が育つ、これを「六処」という。その感覚器官が外界と接触する、これを「触」という。そしてその外界を取り込む、これを「受」という。感覚が外界を取り込むと、そこに外界とそして自分への執着が生まれる、これを「愛」という。執着が生まれると、そこにそれを取り込もうとする意志が生まれる、これを「取」という。執着心が取り込まれると、そこにさも我(実体)あるように認識してしまう、これが「有」である。こうして自我を持ったまま生まれる、つまりこれが「生」である。そして後は老いて死ぬだけ、つまり「老死」となる。で、死ぬと再び、真っ暗の「無明」に戻り「行」から繰り返す、という最悪の循環を繰り返す、というのが「十二因縁」という教説である。
解りましたか?。いや解るとか解らないとかの問題ではなく、それがいったい何なのか、何の意味があるのか、そう若干イライラしてきたかも知れない。
ではこれもスッキリと明確に解説しよう。つまりは、この悪循環をひとつひとつ心の中でよく観察し、その悪循環の原因を探り出しなさい、ということ。で、その原因が真っ暗の「無明」であること。そもそもその悪循環があるのは「無明」があるから。じゃあ、「無明」を消せばいい訳だ。「無明」を消すにはどうするか。「無明」は正しい真理を知らない圧倒的な無知のこと。なら、正しい真理を知ればいいことになる。つまり正しい真理を知れば「無明」が消え、「行」も「識」も「名色」も「六処」も「触」も「受」も「愛」も「取」も「有」も消えるから、六道という迷いの世界に生まれることはなく、従ってそこで老いて死ぬことがなくなり、「無明」に戻ることはなくなる、という論法である。六道に生まれなければ何処に生まれるのか、と言えば、もちろん仏界にである。正しい真理とは、当然ブッダの教えのこと。そのブッダの本当の智慧によって「無明」を消し去り、悟りの世界に上昇するための、いわば心の観察が「十二因縁」ということだ。これも仏道修行である。この心の観察という瞑想修行によって、悪いカルマを消し、煩悩を消し、「十二因縁」を消しなさい、というのがお釈迦の教えだ、と大日如来が述べているのである。
「違世の八心」の最後である八つ目は、「創造主がすべて決めているのだから、運命は変えることは出来ない」という誤った観念から離れよ、ということ。いわゆる外道の運命論に惑わされず、ただひたすら仏の道を突き進め。運命は君の手でいくらでも変えることが出来るのだ、ということである。
以上が「違世の八心」である。これはつまり、初期仏教の教説であり、お釈迦さまが説かれたとされる修行徳目となる。「順世の八心」という在俗の修行をマスターし、他の誤った教えに惑わされず仏の道を進もうと決意したビギナーの修行者は、まず基本中の基本のお釈迦さまの説いた教えに従って修行しなさい、と大日如来が諭されているのである。『先仏は、このようにしてすべての禍いから離れなさい、と説いている』と大日如来が言われた先仏とは、大日如来の先輩ブッダである釈迦如来のことなのだ、と理解していないといけない。この先仏を、一切諸仏のことと解説している註釈書があったが、ならば大日如来の後輩ブッダもそれに含まれることになり、話がおかしくなる。ブッダは時空間を超越した存在だから、過去にも未来へも行けるのだ、と言われればそれまでだが・・。
さらに大日如来は続ける。『秘密主よ。俗世を離れた心を持つ者は、たとえ肉体や現象界(蘊)という泥沼にあろうとも、このような真理の智慧に目覚めるのである。もし現象界からの離脱を決意したのなら、
聚沫(じゅまつ)・・水しぶきのこと
浮泡(ふほう)・・泡のこと
陽炎(かげろう)
芭蕉(ばしょう)・・淡く果敢ない枝葉
響(きょう)・・ひびき
幻(まぼろし)
などを見たり思い浮かべたりしながら、世の無常や果敢なさを知り、執着を離れるがよい。すなわち現象世界(蘊)、感覚対象と感覚器官(十二処)、そしてすべての感覚の世界(十八界)、認識する実体(能執)、認識される実体(処執)、それらはすべて妄執であり、宇宙の真理(法)から大きく外れている。このことを知ることによって静寂な境地(涅槃)に目覚めるのである。これを俗世から離れた心、「出世間心」というのである』
と申される。世俗を離れた仏道修行者は、たとえ肉体や現象界という泥沼にいても、修行によって「違世の八心」の真理の智慧に目覚めてゆくものである。もし現象界から離脱したいのなら、水しぶきや水の泡や陽炎や儚く淡い枝葉(芭蕉)や反響や幻を眺めたり思い浮かべたりして、世の無常と果敢なさを知り、それらへの執着を離れるがよい、と言われる。
そして「蘊」、「十二処」、「十八界」、「能執」、「処執」はすべて妄執であり、「法」から大きく外れている。このことを知ることによって「涅槃」に目覚めるのである。これを「出世間心」という、とのお言葉である。この場合の「蘊」を現象世界と訳した。前述したように「蘊」は五蘊のことであり、認識作用のことである。この認識作用によって、我々は認識対象に実体を認め、それに執着する。そもそも「現象」とは、象(かたち)が現れる、あるいは現れた象(かたち)という意味であり、つまり「象(かたち)が現れる前」があることを示唆している。では現れる前には何があるのか。仏教では「なにもない」、つまり「空」であると説く。えっ、「なにもない」ところから、どうやって象(かたち)が現れるのか、おかしいだろ、と思うだろうが、仏教では、そもそも象(かたち)は我々があると思い込んでいるだけで、我々の認識作用が創り出した幻影に過ぎないと説く。象(かたち)は現象であり、我々が創り出した幻影なのだ、ということ。だから感覚対象、つまり見たり聞いたり匂ったり味わったり触れたり直感したりするすべての外界の対象(六境)と、視覚器官、聴覚器官、臭覚器官、味覚器官、触覚器官、直感器官というすべての感覚器官(六根)の総数「十二処」と、そしてこの「十二処」に、さらに各感覚作用(六識界)を合わせた「十八界」という感覚の全体からもたらされるあらゆる現象や、また我々に現象を認識させる何らかの実体(能執)と現象を認識させられる何らかの実体(所執)が存在していると思い込むことは、すべて悪しき執着(妄執)であり、それらは宇宙の真理(法)から大きく外れている。このことを知ることによって、「涅槃」に目覚める、という。「涅槃」とは、永遠に続く静寂と喜びの境地のことを言う。こうしてあらゆる妄執から離れ、宇宙の真理を知り、「涅槃」の境地に至った心を、俗世から離れた心「出世間心」というのだ、とのお言葉である。「出世間心」に至るにはなかなか大変そうだけど、常に目の前の現実は「空」であり、幻想に過ぎないと観察し続けることで、世の煩わしさや悩ましさから解放され、穏やかな心になることは確かなようである。そんなのムリ、と諦めずに試してみることをお勧めする。
[各論四・喩祇(ゆぎ)の行と大乗の行と真言菩薩行と信解(しんげ)行の解説]
さらに大日如来は続ける。
『秘密主よ。かの世俗の八つの修行過程(順世の八心)にあるものも、世俗を離れた八つの修行過程(違世の八心)にあるものと同じように、悪しき因縁と業(カルマ)と煩悩の循環の綱を断ち切るには、「一劫」という絶え間のない期間を飛び越え、百六十心を克服し、十二因縁を超え、自我と実体という二つの執着から離れる修行をしなければならない。これが最初の段階の「瑜祇(ゆぎ)の行」である』
大日如来は、今まで心の成長段階を「順世の八心」、「違世の八心」、「出世間心」と説いてきたが、今度は具体的にどのような修行をすれば良いかをここで開示する。まず在俗の修行者、この場合は在家の仏道修行者のことを指すが、彼らも出家して本格的に修行をする仏道修行者と同じように、悪しき因縁と業(カルマ)と煩悩の循環の綱を断ち切るために、百六十心を克服し、十二因縁を超え、自我と実体という二つの執着を離れる修行をしなければならない、という。悪しき因縁も業(カルマ)も煩悩も百六十心も十二因縁も自我と実体についても、すでに解説済みなので改めて前貢を読み返して欲しいのだが、それらを超克するには、「一劫」という期間を超える必要があるという。
「劫」とはサンスクリット語「カルパ」の音写「劫波」の略で、ひとつの比喩として、『一劫とは何キロ平方メートルもある大きな岩を、天女が百年に一度地上に舞い降りて、その羽衣でサーッと一撫でして、そうして全部無くなるまでの時間にも満たないこと』を言うらしい。他にも『400里四方の城にぎっしり詰まった芥子の種を、百年に一度一粒ずつ除いて、それが全部無くなるまでの時間にも満たない』という。ヒンドゥ教では一劫をきっちり43億2000万年としているらしいが、いずれにしても途方もない時間の単位である。ちなみに、弥勒菩薩が兜率天というところから私たちを救うために弥勒仏というブッダになってこの世に帰って来られるのは、お釈迦さまが入滅してから56億7000万年後という。お釈迦さまが入滅したのがザックリと2500 年前だとすると、あと約56億6666万4500年後ということになる。気が遠くなる年数である。ただし、南方の上座部仏教の説によると、57億6000万年の方が正しいとして大乗仏教の間違いを指摘している、がもうそんなことはどっちでもいいって思えるくらい考えるのも億劫になるが、インド人というのはこうして太古より宇宙規模の途轍もない時間の概念を持っていたことに驚かされる。あっ、ちなみにこの億劫というのも仏教用語で、劫が億もあったらとても数えられないからいやんなっちゃう、という喩えである。
とにかく、我々の思考の範囲を大きく凌駕するほどの膨大な時間を掛け、何度も生まれ変わり死に変わりを繰り返し、その一劫という期間を超えて初めてそれらを超克出来るのだ、と大日如来はおっしゃる。そしてその膨大な時間を超えてする修行が「瑜祇の行」である、としている。
「瑜祇の行」は、悪しき因縁や業や煩悩や百六十心を超克する行なのであるが、それでは具体的に何をするのか。これらの穢れを克服するのが「瑜祇の行」である。と言われればそれまでだが、しかし実際に何をすればいいのか解らなければ意味がない。「瑜祇」とは、つまり瞑想をすること。「瑜祇」はサンスクリット語の「ヨーギン」の音写で、「ヨーガをする人」を意味している。「ヨーガ」はインド発祥の瞑想法で、人体にあるチャクラと呼ばれる七つの円形をしたエネルギー集積回路の中枢を、華が開くように解放することによって解脱を図ろうとする修行である。最近はエクササイズのひとつとして流行っているが、元々は人体のエネルギーを最大限に解放し、悟りを開く修法のひとつなのである。ただし、これは「ヨーガ・スートラ」というヨーガ派の聖典から編み出された瞑想法の一分野であり、古来インドではこれに限らず、様々な瞑想法を「ヨーガ」と読んでいる。まあ、「ヨーガ」は瞑想のこと、と覚えておけばいい。従って「ヨーギン」つまり「瑜祇」は瞑想の実践のことを言う。「瑜祇の行」とは瞑想の実践修行のことになる。
ではどんな瞑想をすればよいか。これは実は初期仏教及び部派仏教時代の修行方法を意味している。つまり大乗仏教以前の、大乗仏教側から表現すると小乗仏教ということになるが、あくまでもお釈迦さまが説かれたとされる、中道、四諦(したい)、八正道(はっしょうどう)、十二因縁等の修行方法である。中道は、苦楽、善悪、増減、長短、大小、好き嫌い等の差異差別を無くし、あくまでも偏りのない中間の境地でいること。四諦は、生きとし生けるものには苦しみがあることを認め(苦諦)、それらは四苦八苦であることを分析し(集諦・じったい)、それらの原因を取り除くため(滅諦・めったい)、八正道という修行に邁進すること(道諦)を言う。八正道は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定であり、正見は正しいものの見方、正思惟は正しい考え方、正語は正しい言葉の表現、正業は正しい職業、正命は正しい生活、正精進は正しい努力、正念は正しい思念、正定は正しい瞑想のことである。何が正しいかと言えば、仏道修行者がお釈迦さまの定めた戒を守り、修行者として恥ずかしくない生き方をし、それによって悟りを得ることである。その修行法を具体的に明記すると余りにも長くなるので割愛するが、要するに修行者は八正道に即して修行しなさい、ということ。十二因縁の修行は前述した通り、智慧によって無明を消し去り悪しき因縁を断つことであるが、これは正しい思念(正念)による修行となる。また八正道の中の正しい瞑想(正定)とは、これが実は「瑜祇の行」に当たる訳だが、これには四種類の瞑想法(四念住)があり、美しいものもいずれ朽ち果て老いさらばえてゆく、自分の肉体も若いと思えるのはほんの一瞬で、いずれは醜く老いてゆく、こうして肉体の不浄を観じ(不浄観)、その執着を断つ瞑想法(身念住)がひとつ目。認識作用(五蘊)や感覚作用(十八界)によって苦しみが増す(五蘊盛苦)と観ずる瞑想法(受念住)が二つ目。心に浮かぶ神羅万象は常に流動変化している(無常)と観ずる瞑想法(心念住)が三つ目。現象世界は実体がなく(無我)幻影に過ぎないと観ずる瞑想法(法念住)が四つ目である。この「四念住」を合わせた「三十七道品」という修行過程があるが、あまりにも煩瑣になるので説明はここで止めておく。要するに、お釈迦さまが説かれた「四念住」という瞑想法を中心としたこれらの修行法が「瑜祇の行」であり、この行を修することによって、悪しき因縁やカルマや煩悩や百六十心や自我や実体への妄執を克服しなさい、と大日如来は説かれているのである。
この「瑜祇の行」を修得したら、次の段階が「大乗の行」になる。
『秘密主よ。この次は「大乗の行」がある。それは心の他にはないもない(無縁乗心)という心の在り方(法性)を悟ることである。前世よりこの「大乗の行」を修行している彼は、現象世界(蘊)はすべて無意識の最も奥底にある阿頼耶識(アーラヤ・意識の蔵)から現れ、生成消滅しているに過ぎないことをよく観察しているために、物事の有り様(自性)は、幻・陽焔(かげろう)・影・響・旋火輪(松明を回した時に出来る炎の輪)・乾闥婆城(蜃気楼)のようなものと熟知しているからである。
秘密主よ。彼はこのように実体にこだわらないことへの執着(無我)すらも捨てているので、心は限りなく自由であり、また心は本来永遠であるもの(本不生)と悟るのである。なぜかと言えば、心はその始まりも終わりも捉えることは出来ないからである。このように自分の心の在り方を知れば、それは二番目の数限りない時間(ニ劫)を飛び越える瞑想の行となるのである』
と大日如来は説かれる。一番目の「瑜祇の行」が小乗仏教の修行法であるのに対し、二番目の「大乗の行」は、文字通り大乗仏教の修行法となる。
その前に、そもそも大乗仏教と小乗仏教は何が違うのか、という説明をしておかなければならない。大乗は大きな乗り物、小乗は小さな乗り物、ということで、大乗仏教成立前の部派仏教各派を大乗仏教側から非難する意味において小乗仏教と呼ぶことが慣例化されているのであって、今でも南方の仏教は部派仏教の説一切有部の流れを汲んでおり、正式には上座部仏教と呼ばなければならない。
紀元前四世紀前後にお釈迦さまが入滅されて一世紀ほど経つと、仏教はインド各地に広がり興隆するが、各グループが教理や戒律の面で対立を深め、大きく保守派である上座部と改革派である大衆部に分裂する。これを根本分裂というが、さらに数世紀に渡ってそれらがさらに分裂し(枝末分裂)、最終的に20ほどのセクトに分かれて教理や戒律、修行面で対立するようになる。これを小乗二十部と言い、この時代を部派仏教時代という。つまり大乗仏教側は、これらの部派仏教を小乗仏教と呼んでいるのである。
ではどうしてそう呼ぶのかと言えば、この部派仏教では、お釈迦さまのような特別に選ばれた人しかブッダになれず、仏道修行者は何百回と生まれ変わり死に変わりして長い期間修行をし続けて初めてブッダたる資格を得られるのであって、そのために今世では悟るための最高度の教学と厳しい修行過程をマスターしなければならない。それをマスターしたごく少数の選ばれた修行者のみ、阿羅漢(アラハーン)というブッダとなるべき資格を得られるのだ、という極めてエリート志向の強い、例えて言えば、荒波にひとり漕ぎ出す忍耐力と高度な智慧がなければ悟りの世界(彼岸)には辿り付けない、つまりエリートのみしか悟りを得られないとするのが小乗の教えだった。そのため一般大衆からは大きく乖離し、大衆は彼らをただ仰ぎ見て、お釈迦さまの舎利塔を巡礼し信仰することが慣例化されていた。
ところが紀元一世紀前後になると、この部派の内の革新派である大衆部のセクトの中から、お釈迦さまがわざわざ各地に伝道活動をされたのは、誰もがお釈迦さまのように悟りを開くことが出来るからであり、ならばお釈迦さまの精神に立ち返り、民衆にも仏の教えを説くべきだ、と考える者が現れ始める。この仏教大衆化運動が大きな流れとなり、大乗仏教が生まれる。大乗の教えは、大きな乗り物にみんなを乗せて、みんなでいっしょに悟りの世界(彼岸)に行きましょう、ということ。ただそのためには、高度に発達した部派仏教各セクトの教理に対抗する新たなオリジナルの普遍的教理が必要となる。そこで構築されたのが「空」という概念である。
と、ここまで長々と説明してきたのは、大乗仏教の根本教理が「空」であることを伝えたかったからである。この「空」の思想を世に広めたのはなんと言っても大乗仏教の祖と言われるナーガールジュナ(龍樹)の功績が大きいが、一方、経典としては数世紀掛けて膨大な「般若経経典群」として纏められる。それは大乗仏教の根本教理「空」の思想が中核を成しているが、般若心経はこの般若経経典群の「空」の教理の本質を極めて短く表したお経として、今でも日本の各宗派で親しまれ読まれていることはご存知だろう。
で、本文の「大乗の行」について述べよう。「大乗の行」とは、「心の他には何もない」という心の在り方を悟ることだと言う。この「心の他にはなにもない」ことを「無縁乗心」というが、つまりこれは心は「空」である、と言っているのと同じこと。そして前世よりこの「大乗の行」を修行しているものは、現象世界は「阿頼耶識(あらやしき)」から現れ、生成消滅しているに過ぎないことをよく観察しているから、物事の有り様は、幻や陽炎や影や響きや旋火輪や乾闥婆城のようなのだと熟知している、という。
で、この「阿頼耶識」だが、これは大乗仏教時代、その興隆に伴って生まれた二大教学のひとつ、「唯識派(あるいは瑜伽行唯識学派)」の重要な教理である。
二大教学のもうひとつは「中観(ちゅうがん)派」であり、前述したナーガールジュナ(龍樹)の説を基に「空」を中道思想と結び付けて論じ、それに基づいて瞑想することが悟りへの道であると説くのに対し、「唯識派」はどのようにして心は現象を創り出すのかに焦点を当て、詳細な分析を試みる心の分析学であると言っていい。もちろんこの分析に基づいく瞑想実践が欠かせないものであることは言うまでもないが、では「唯識派」はどのように心を分析したのだろうか。
まず我々は外界の現象を知覚するのに五つの感覚作用を使う。それは眼識(視覚作用)、耳識(聴覚作用)、鼻識(臭覚作用)、舌識(味覚作用)、身識(触覚作用)の五識である。これを「前五識」という。なお、前述した六識における第六番目の意識(感覚作用の総体)は、唯識派では「前五識」とは別に「前五識」を纏める総合感覚としてひとつのカテゴリーとなる。このように「前五識」とその総体である第六識の「意識」によって我々はものを知覚し思考することになる、と考えがちであるが、ところがそうではなく、「意識」のその奧には第七番目の「末那識(マナス)」という潜在意識が存在し、無意識のうちに我々は否応なく外界の現象から自我意識を形成している。
しかし我々が自我と実体があると思い込むのは「末那識」ではなく、更にその奧にある「阿頼耶識(あらやしき・アーラヤ・蔵識)」という第八番目の最奥の潜在意識の作用によるものであり、この「阿頼耶識」によって「前五識」と「意識」と「末那識」が生まれ、妄執や我欲や煩悩を生んでいると唯識派は唱える。
ではどのようなシステムでそれが起こるのかというと、唯識派では「種子(しゅうじ)」という存在がそれを引こ起こすとされている。我々が何かを思考したり行動したりすると、その種である「種子(しゅうじ)」が「阿頼耶識」に植えつけられる。それはまるで匂いが染みつくようなので「薫習(くんじゅう)」と表現される。こうして「阿頼耶識」に「薫習」した「種子」は瞬間に現象として現れ、その現象によって「前五識」「意識」「末那識」を通して「種子」が再び「阿頼耶識」に瞬時に「薫習」される。この繰り返しが自分の現実を創り上げているのである。
この循環はその瞬間に現れては消えるため、過去の時間は存在せず、ただ今この瞬間があるだけである。これを「刹那滅(せつなめつ)」という。今は刹那に消えて刹那に今になりその今も刹那に消えて刹那に今になる。従って過去も未来もなく、ただただ今があるだけ。これが「刹那滅」である。あらゆる現象も自我もいっさいがっさいが心の中の「種子」の循環によって刹那に生まれては消えるのだから、そうなると「前五識」もなく、「意識」もなく、「末那識」もない。これらがなければ種子もないことになり、最後は「阿頼耶識」もないことになる。つまりすべては「空」である、となる。
ただしこれは理屈ではない。心を徹底的に見つめ、意識の奧にある潜在意識が、無意識に自分の思考や行動を操っていることに気づき、その流れを観察することによって、自分が現実だと思い込んでいたものは、すべて一瞬のうちに消え去るものであったことに気づき、それはすべて心が創り出した幻影だったのだと直観する。これが「瑜伽唯識」の瞑想修行のカリキュラムなのである。この点を踏まえて唯識派の教学を見ないと、単なる学者のおもしろ知識だけに終わってしまう。
このように「大乗の行」においては、大乗仏教の代表的な教学である唯識派の「阿頼耶識」の理論を用いて、すべての現象は「阿頼耶識」から発生し生成消滅しているに過ぎないから、物事の有り様は夢幻のようなものなのだ、それが前世より「大乗の行」を修行しているものの境地である、と大日如来は言われる。
そして彼はこのように実体にこだわらないことへの執着すらも捨てているので、心は限りなく自由であり、心は本来永遠であることを悟るのだ、という。
一切のこだわりを捨てようと、それにこだわることも執着である。捨てようとしなくても自然にそのこだわりから離れているからこそ、心は限りなく自由であり、あらゆる束縛がない。あらゆる束縛がないということは、時空間の束縛からも自由であり、すなわち心は永遠なのだ、と悟ることに「大乗の行」の境地がある。この「大乗の行」を修めるには、更に「ニ劫」を超える瞑想行(瑜祇の行)が必要となる、という。一劫がとんでもない時間だから、その倍のニ劫はとんでもない時間の二倍を超えるものすごくとんでもない時間ということになるが、それだけの時間を「大乗の行」の瞑想行に費やさなければ悟りは得られない。
こりゃムリだ、と諦める前に、こう考えてみたらどうだろう。現代人はとかく性急に結果を求めようとする。そのために焦りや苛立ちで大きなストレスを抱え、にっちもさっちもいかない状況に自分で自分を追い込んでいる。しかし時間は刹那滅である。過去も未来もその瞬間にしかない。あるのは今だけ。だから私には「今」という永遠の時間がある。その悠久の時間の中にゆったりと身を置き、「今」を着実に有意義に生かすこと、それが時間を超越することであり、「今」を生きることである。何劫先であろうが、それは今一瞬この時であり、悟りは今この瞬間ここにある。そう理解したら、この劫というとんでもない時間の意味を納得できるかも知れない。
さて次は「真言菩薩行」である。
『また秘密主よ。次の「真言の門」では菩薩の行を修行することになる。菩薩たちは百千億劫という無窮の時間を経て、数え切れない功徳と智慧と、つぶさに諸々の行を修めることによって得たあらゆるものを救い取る手立て(方便)とを、みなことごとく成し遂げている。であるから菩薩は、天や人の帰依するところのものであり、声聞(しょうもん)や辟支仏(しゃくしぶつ)の境地を超え、帝釈天すらも親しく敬意を払う存在なのである』
と大日如来は説かれた。大日如来は、「大乗の行」の次に「真言の門」を設定する。その「真言の門」は菩薩の行である、と説かれる。真言の修行者は、あくまでも菩薩行に徹しなければならない、との教えである。
その菩薩とは、百千億劫という「劫」が百千億もある、百千億とはどうゆう計算方法なのかも解らないほどの目も眩むような長い期間、数え切れない功徳と智慧、そしてあらゆる仏道修行によって得たあらゆるものを救い取る手段、すなわち方便とを、みなことごとく成し遂げている、という。菩薩さまは素晴らしい。だから菩薩は、天の神々や人間が身も心も捧げて敬うべきものであり、「声聞」や「辟支仏」の境地を超えているから、お釈迦さまが悟りを開く前からサポートしていた帝釈天すらも親しく敬意を払う存在なのだ、という。菩薩さまは本当に素晴らしい。
と、ここで「声聞」と「辟支仏」という言葉が出てくる。この説明をしておかなければならない。「声聞」はサンスクリット語でシュラーヴァカといい、聴聞者とか門弟という意味があり、特に仏教では、仏法に触れ、その素晴らしさに感銘を受け、師匠よりその教えを熱心に聞き、学習し、修得してゆこうとする人を指す。「辟支仏」はサンスクリット語プラティカ・ブッダの音写で「ひとり悟る」という意味。他に「縁覚(えんがく)」とか「独覚(どっかく)」などの呼び方がある。仏教に限らずジャイナ教などでも別の呼び方で使用していたらしく、お釈迦さま当時のインドでは一般的な修行者の形態だったのだろう。仏教の場合は、誰にも頼らず独学で仏教を学び、自ら厳しい修行を課して独自の悟りを開いた人のことを言う。ひとり山に籠もり、誰とも接触せず、孤高の悟りを目指す修験者のような人物を想像すればいいだろう。しかし、自分だけで満足している独り善がりの悟りは、本当のブッダの悟りではない。本当のブッダの悟りとは、苦しみ喘ぐ生きとし生けるものを救おうとする慈悲の心がなければならない。その慈悲の心を持ち、衆生済度(みんなを悟りに導くこと)に邁進する人こそ菩薩なのである、と大日如来は言われる。本当に本当に菩薩さまは素晴らしい。
大乗仏教では「声聞」と「縁覚」を二乗と呼び、このふたつを小乗の境涯と規定して、大乗の境涯を菩薩乗としている。つまり「声聞」と「縁覚」は小さな乗り物のレヴェル、「菩薩」こそが大きな乗り物のレヴェルなのである、ということ。ただし、これらの三乗は本質的には差異はなく、一乗あるいは一仏乗として共にブッダの道を歩むものである、という考え方も大乗仏教にはある。みんな求めるものは一緒なのだから、小乗の教えもただ否定するばかりではなく、共に仲良く悟りを目指しましょう、ということだろう。
ちなみに中国では髄代に天台宗を創始した天台大師智顗(ちぎ)が十界論という教説を唱えている。天台宗はもともと法華経がすべての仏典の最高峰にあると位置づけて教理を展開する宗派であるが、十界とは、前述した六道という我々が輪廻転生しなければならない迷いの世界、すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という世界にプラスして、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、そして仏乗の「四聖(ししょう)」と呼ばれる、聖人にレヴェル・アップする四つの境涯を付け加えたものである。六道という迷い苦しむ世界から脱却して仏界という素晴らしい世界に上昇するその方法論を説いたのはお釈迦さまだが、天台教学では、六道からいきなり仏界に行くのではなく、その前に三段階の修行の階段を登らなければならないと説く。それが「声聞乗」「縁覚乗」「菩薩乗」ということ。「声聞乗」から「縁覚乗」へ、「縁覚乗」から「菩薩乗」へと段階を踏んでスキル・アップし、やがて仏乗に到達するということである。
大日如来はさらに続ける。
『いわゆる「空」の本質は、感覚(根)と感覚対象(境)を離れて形なく、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることも出来ない領域(無境界)であり、そもそも諸々のつまらない議論(戯論)をする対象にならない。そしてこの虚空のように無限の広がりを持つ仏法は、この真言菩薩行の修行によって開き示されるのである。そしてそこから現象世界と霊的存在者とを離れ、現象世界は霊的存在者の被造物であるという概念からも離れ、見るもの聞くもの嗅ぐもの味わうもの触れるもの感じるものの世界から離れているからこそ、絶対的な「空」の心が生まれるのである。
秘密主よ。このような真言菩薩行を修めようとする菩提心を、仏は成仏の第一原因(因)と説くのである。さらに菩薩は、業と煩悩を解脱していながら、なおも業と煩悩を内に備えて、衆生を救おうとするのである。この菩薩の「大悲」が成仏の根本理念(根)である。だからこそ世の中のものはみな、菩薩を敬い尊び、常に供養を怠らないようにしなければならないのである』
と大日如来は「真言菩薩行」の教えをこう結んでいる。
ここで大日如来は、真言菩薩行こそ仏法の本源である「空」を開示する修行であると説く。そして真言菩薩行の修行者は、現象世界と霊的存在者とを離れ、現象世界が霊的存在者の被造物であるという概念からも離れ、あらゆる感覚対象から離れているからこそ、絶対的な「空」の心が生まれるのである、という。
ここで言う霊的存在者は、単的に創造主のことである。レヴェルの差こそあれ、天の神々から天使、妖精、妖怪、魑魅魍魎、悪鬼悪霊の類に至るまで、我々の目に見えない世界の住人は、みな霊的存在者ということになる。仏教はこれらの存在を認めていない、という論者がいるが、それは大間違いで、認めないのではなく、認める必要がない、認めて探求し執着して頼ったり怖がったりしても無意味である、それらにうつつをぬかす時間があったらしっかり修行しなさい、とお釈迦さまは言われたのであって、それらの存在そのものが無いと言っている訳ではない。
それらは厳然と存在している。ただ、修行の邪魔になるだけだから関わるな、ということ。特にヒンドゥ教の世界創造神の概念、これはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の世界観が示す創造主の概念と共通するのだが、創造主が世界のすべてをお造りになったのだから、我々はすべて創造主の被造物である、という考え方を、仏教は全く無視している。否定ではなく、取るに足らない見解、これを戯論というが、要するにこの類いの議論はくだらんから関わりを持たない、という立場である。言い争っても全く無意味だから無視する、ということ。
こういうことに関わりを持たなくなった境地を、ここでは「離れる」という表現を使っている。だから、ここでは感覚器官(根)や感覚対象(境)や現象世界や霊的存在者が存在しない、と言っている訳ではなく、あくまでもそれらから離れて自由になり意識しなくなった心の状態を「空」と言っているのである。それが真言菩薩行の修行者の修するべき道なのであるが、実はそれこそが「三句の法門」の第一原因(印)である菩提心なのである、という。つまり絶対的な「空」の境地に至ろうとする心が菩提心なのだ、ということ。
ただし菩薩はそれだけではなく、業や煩悩を解脱していながら、なおも業や煩悩を内に備えて、衆生を救おうとする。これはいったいどういう意味なのだろうか。
菩薩という修行段階を終えれば、次はいよいよブッダである。菩薩はブッダになるために業や煩悩を解脱するという厳しい心の修行を積んできたのだから、その過程をすべてマスターしたのならブッダになるのは当然である。しかし、あえてブッダの資格を持ちながら、ブッダにならず、菩薩のままで生けるものすべてを救おうとする、それが菩薩なのだということ。
そのためには、生けるものの持つ悩みや苦しみや罪穢れ、業や煩悩をあえて心に秘め、彼らのすぐ身近かにいて、彼らの苦しみ悩み辛さを直接心で受け止めて、ひとりひとりを大慈悲の心で救済してゆこうとする、それが菩薩行というものである、と大日如来は説かれる。この菩薩の「大慈悲」の心が「三句の法門」の根本理念「根」なのだ、ということである。だから「大慈悲」の化身のような菩薩は、この世の誰であろうと敬い尊ばなければならないのである。
次がいよいよ四番目にして最終段階の「信解行(しんげぎょう)」である。
『また次に秘密主よ。「信解行」の境地においては、菩提心と大悲と方便(三句の法門)という重要な三つの心をよく観察し、広大無辺なる波羅蜜多慧(悟りに至る智慧)を持って、布施(教えやものを施すこと)、愛語(優しい言葉で慰め癒すこと)、利行(相手の為になる行為)、同事(相手の立場に立ち平等に接すること)という四つの善業(四摂法)を修得することが出来れば、信解の境地は他に比べるべきものがなく、無限大であり、かつ例えようもなく不思議である、と賛嘆することになるだろう。なおかつ十の心の修行階梯(十地)を確立し、そこより無限の悟りの智慧(無辺智)が生まれるのである』
という。「信解の行」とは、信じて理解する修行ということ。「信解」は「順世の八心」のところで神々を信仰することとして表現されているが、今回は意味が違う。何を信じるか、といえば、仏の教えを、である。それも、徹底的に何の淀みもなく信じ切ることである。それが最終的な仏道修行なのだ、と大日如来は説かれる。
意外な感じがするかも知れないが、大日如来が今まで事細かに説いてきた心の修行のひとつひとつ、「初法明道」に始まり、「順世の八心」という在俗の心の進化過程から、「違世の八心」の仏道修行者の心の修行階梯、または「百六十心」という克服すべき心の在り方を含め、自我と実体、悪しき因縁や業や煩悩や我執から離れた「出世間心」の境地、そして「瑜祇の行」「大乗の行」「真言菩薩行」という修行徳目までのすべてにおいて、寸分の疑いもなく信じ切ることが「信解の行」ということである。
その為にはただ信じるだけではなく、信じたそれらの教えを真剣に学習し、実際に修行し続け、あっ、なるほどその通りだ、と心の底から納得して初めて行の達成が量られる。だからこそ「信解の行」が修行の最終徳目となるのだ、ということ。
そしてその「信解の行」の段階において、この「大日経」のメイン・テーマである「三句の法門」を今一度、肝に銘じて心に刻みつけておく必要がある。すなわち「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」という文言である。これが何より一番肝心の教えなのだから、絶対に忘れちゃいけないよってこと。その上で悟りを開くための無限の智慧を身につけ、「四摂(ししょう)の法」に精進すること。「四摂の法」とは初期仏教時代から説かれてきた、仏道修行者が行うべき善行のことである。
『教えや物品を施すこと=布施』
『優しく思い遣りの籠もった言葉で相手を慰め癒すこと=愛語』
『相手の利益となるような行いをすること=利行』
『相手の立場に立ち平等に接すること=同事』
の四項目である。一見、なんだ、こんなこと、と思うかも知れないが、この誰でも解る単純なことこそ仏道修行にとって最も大切なことなのだ。その善行を遣り切れば、「信解の行」というものが、他に比べるものがないほど無限大であり、例えようもなく不思議だと驚嘆するだろう、と大日如来はおっしゃる。
なおかつ十の心の修行階梯を確立し、無限の悟りの智慧(無辺智)が生まれるのである、という。十の心の修行階梯とは、菩薩の修行段階である「十地(じゅうち)」のことであろう。大乗仏教は菩薩行に特に重きを置くのが特徴だが、この「十地」は、五十二もある修行段階の第四十一位から五十位までの十段階を意味している。菩薩の五十二位は、上から妙覚、等覚、十地、十回向、十行、十住、十信であり、その合計が五十二あるということである。菩薩さまも大変だ。「十地」は仏典や経論によって違いはあるものの、概ね、下から
1「歓喜地:十回向までの修行期間(初阿僧祇劫:菩薩の修行期間の単位の最初。とにかく物凄く長い期間)を終了し、仏法を信じてすべての生けるものを救済しようと誓い、喜んで仏道修行をしようとする境地」
2「離垢地:戒を守ることで心の垢が離れた境地」
3「発光地:耐え忍ぶ(忍辱)修行の結果、智慧の光を放ち初法明道の修行に邁進する境地」
4「焔光地:努力(精進)を怠らない修行によって、個々の執着から離れ、智慧の光で周囲を照らす境地」
5「難勝地:禅定の修行を修得することによって、瞑想中に現れる雑念や誘惑に打ち勝ち、聖なる智慧も俗なる智慧もその本質は同じだと悟る境地。小乗行の四諦の行から大乗の利他行に移行する境地」
6「現前地:智慧の修行を修得することで、最も勝れた智慧を得て、きれい汚いという差別はないことを目の前に現す境地。必ずブッダになれると確信する境地」
7「遠行地:他者を救う手段(方便)の修行を修得し、大慈悲心を興して声聞、縁覚の境地からステップ・アップする境地。この修行を終えて第二阿僧祇劫という菩薩の修行期間が終了したとされる」
8「不動地:願いを叶える修行を修得することにより、神羅万象はすべて幻想に過ぎないと悟る境地。従って何ものにも動じない境地」
9「善想地:智力をつける修行を修得することによって、十の智慧の力(十力)を獲得し、その力であらゆる生けるものに説法する境地。すべての修行を成し遂げた菩薩が、いよいよ現世において衆生済度を実行する境地」
10「法雲地:智慧の修行を完全に修得して、無限大の功徳で雲のように世界を覆い尽くし、清らかな真理の雨を降らす境地。菩薩の修行期間の第三番目(第三阿僧祇劫)を終了し、すでにブッダの悟りに至った境地」
である。ザッと解り易く解説したつもりだがどうだろう。
なお、「十地経」という経典では、「十地」を十波羅蜜(十の彼岸に渡るための修行徳目)と結びつけて解説している。でも、混乱するようだったら、こんなものがあるんか、程度に覚えておけばいいと思う。
「阿僧祇劫(あそうぎこう)」は時間の単位であるが、「阿僧祇(あそうぎ)」は中国に仏典が入り、日本に輸入されると「10の56乗」とか「10の64乗」とかの途轍もない時間とされるようになったが、「阿僧祇劫(あそうぎこう)」となると、これにさらに、あの「劫」という気が遠くなる単位を掛けた数になる。まさに想像を絶するが、そもそもサンスクリット原語では、「数え切れない数」という意味だから、数値にこだわることは全くない。この数え切れない数の時間の三倍が「三阿僧祇劫」である。これは菩薩がブッダと等しい境地になるまでに掛かる期間とされ、「初阿僧祇劫」、「第二阿僧祇劫」、「第三阿僧祇劫」と三段階に分かれる。「十地」では、この「阿僧祇劫」の三段階が説かれていることになる。いずれにしろ、菩薩さまの修行がメチャクチャ大変なのがよく解る。
ただ、この「十地」の段であるが、これは菩薩の「十地」を意味しているのではなく、文字通り「十心」のことであり、利益心、柔軟心、随順心、寂静心、調伏心、寂滅心、謙下心、潤沢心、不動心、不濁心のことである、という説もある。どちらなのか正直、解らない。また、「信解行地」とは「十地」を意味し、「三句の法門」の「菩提心」が菩薩の初地である歓喜地を表し、「大悲」が第二地の離垢地から第七地の遠行地までを表し、「方便」が第八地の不動地から第十地の法雲地を表している、と説くものもある。そうであるかも知れない・・・。
実はこの「信解の行」に関しては諸説あり、よく解っていない。というのも原文から漢訳するにあたって抜けている箇所があるらしく、全体の構成が掴み切れていないということ。善無畏が著した「大日経」の注釈書「大日経疏」では、ここに「上々方便」という文言があって、これは衆生済度のための最上の方便のことであり、つまりブッダの最上の方便の境地が「信解行地」であるとしている。だからこの「信解行地」が、菩薩の境地である「三句の法門」の上をゆく、すなわち「十地」を越えた第四番目のブッダの境地なのだ、としている。ただ、この辺は少々疑問を挟む余地がある。だが、これ以上突っ込むことは止めて、解らないことは素直に解らないとしておく。専門家の論争に巻き込まれる必要はないし、第一、この難解な「大日経」をなるべく解り易く読み解くのが本論の趣旨なのだから、大筋が間違っていなければ、細かいところの誤謬は、ごめんなさい、で許してもらうしかない。とにかく、ここはあまりにもゴチャゴチャしてきたので、先に進もう。
『私が説くすべての教えは、みなこの境地(信解行地)によって得る事が出来る。このように智者(菩薩修行者)は、まさにこの最上の智慧(一切智)である「信解」の境地をよく心に落とし込み、さらに一劫を超越し、この境地に至るのである。このように「瑜祇の行」「大乗の行」「真言菩薩行」という三段階を踏みながら、最後に「信解」を悟るのである』
大日如来が今まで説いてこられた教えのすべては、この「信解の行」の境地によって得る事が出来るという。つまり「信解の行」が大日如来の教えの集大成ということだ。それは凄い。だからあなたたち菩薩の修行者は、最上の智慧である「信解」の境地を徹底的に思い考え心に落とし込むことによって、さらにもう一劫(もうすでに二劫を超えているから)を超越して、このブッダの境地に上昇するのだ、と言われる。こうして「瑜祇の行」から始まり「大乗の行」「真言菩薩行」を経て、最後に「信解」を悟るのである。と、大日如来は結んでいる。
[各論五・五無畏と十縁生句と六句の解説]
「信解の行」で、大日如来はすべての教えを解き終えた、とおっしゃる。もうこれで説法は終了、はい、みんな、ご苦労様、と大日如来は言いたいところだったに違いないが、ここで「わたし」こと金剛薩埵は、そうはさせぬ、となおも食い下がる。
『世尊よ。救いを求めるものを救う尊き方よ。どうか心の相を解き明かしてください。菩薩の心には幾通りの恐れを除く遣り方があるのでしょうか。偉大なる毘盧舎那世尊よ、どうかこの「わたし」金剛手にお教えたまわらんことを』
金剛薩埵は懇願する。まだまだもっともっと世尊の教えを聞きたい。そんな一心だったに違いない。
すると大日如来は、金剛薩埵のそんなムチャぶりにも、懇切丁寧にお答えされるのだった。
『よいか秘密主よ。あきらかに聞き、よく心に念じよ。
たとえ取るに足らない俗人(愚道凡夫)であっても、もし様々な善業を行ない、不善の業を放棄するなら、それは「善無畏(ぜんむい)」を獲得したに他ならないのである。
もし自らの身体の真実を知れば、まさに「身無畏(しんむい)」を獲得したことになる。
もし様々な現象に左右され、それに執着している(取蘊所集)我が身であったとしても、その自らの心に浮かぶ現象の有り様(色像)を放棄して冷静に心の様相を観察すれば、まさに「無我無畏(むがむい)」の境地を獲得するだろう。
そしてもし妄執を生む現象の有り様(蘊)を放棄して、宇宙根源の法則に則った境地(擧縁)に至ることが出来れば、まさに「法無畏(ほうむい)」を獲得する。
さらにもしその宇宙法則へのこだわりからも自由になれば、「法無我無畏(ほうむがむい)」を獲得する。
もしまたすべての現象の有り様(一切蘊)と、感覚作用(界)と、感覚対象並びに感覚器官(処)と、認識主体という実体(能執)と認識対象という実体(処執)と、自我意識(我)と命の時間経過における実体の観念(寿命等)と、宇宙根源の法則(法)とそこに実体を認めないこと(無縁)とが、すべて空であり、その本質は「なにもない」(自性無性)という、空の智慧(空智)が生まれれば、まさに「一切法自性平等無畏(いっさいほうじしょうびょうどうむい)」を得るのである』
いわゆる「六無畏」の教説である。
「無畏」は、「畏(おそ)れが無い」ということ。以前、布施について話をした時に、この言葉を説明している。つまり、恐怖感を取り除き、安心させることである。この場合は、菩薩が自らの恐怖や不安を解消させる心の修行について語っている。
1・まず「善無畏」がある。取るに足らない凡俗であっても、悪い行ないをやめて善い行ないをすることで、恐怖や不安を解消する事ができる。それに努めなさい、ということ。簡単なようで難しい。だから修行なのだ。でもどうして悪いことをやめて善いことをすると怖さが消えるのか。例えばあなたが何か後ろめたいことをしていたとする。後ろめたいから、人に知れたらどうしよう、と常に不安感と恐怖感に苛まれる。平静を装っても、心の中は不安だらけ。こんな思いをするなら、そもそも最初から後ろめたいことをしなければいいわけだ。反対に人に親切にしたり喜ばせたりすれば、その人は自分を信頼するし、慰めてあげれば、その人は安心感を抱いたりする。いわゆる無畏施である。無畏の施しをすることで、その功徳として自分も不安や恐れから解放される。あらゆるものは感応し合っている。そうゆうことである。
2・次は「身無畏」。自分の体の真実を知ることで、体に対する不安や恐れが解消する、ということ。体は正直だ、なんて言うが、自分の体調や健康状態に常に気をつけていれば、病気への不安は解消される。確かにそうだが、ここでは仏教的な自己観察の意味になる。つまり、身体が実体ではなく、現象に過ぎないと悟ることで、身体に対する執着が消え、執着が消えればそれに対する恐れは解消される、ということ。
3・次は「無我無畏」。「我」は以前も何度も説明したように、実体のこと。もし様々な現象に翻弄されてそれに恐れを抱く事があっても、現象は実体ではなく、ただ心が創り出した幻影に過ぎないと、その妄執を放棄して冷静に心の在り方を観察することで、恐れは解消される、ということ。
4・次は「法無畏」。現象の様々な移り変わりに翻弄されるのは、我々の認識作用によるものであるから、それを放棄して、すべてはただ原因と結果でしかない、という宇宙の法則に則った境地に至る事が出来れば、現象への恐れは解消される、ということ。
5・次は「法無我無畏」。この宇宙法則を実体と捉え、その実体に執着すれば、今度はその法則性に対して恐れを抱くようになる。宇宙の法則には実体はない、と悟ることで、そこから解放され自由になり、どんな原因があろうとどんな結果になろうと、恐れを抱くことはなくなる、ということ。
6・次は「一切法自性平等無畏」。あらゆる現象の有り様には実体があるという観念と、すべての感覚作用には実体があるという観念と、認識するなんらかの実体があるという観念と、認識されるなんらかの実体があるという観念と、自我があるという観念と、時間は否応なく経過するから客観的に存在しているという観念と、宇宙法則は厳然と存在しているという観念と、そこには実体はないという観念とが、これらはすべて「空」であり、「なにもない」という「空」の智慧(空智)が生まれれば、その本質はすべて平等であり、一切のものに差異差別は無くなり、なにものからも自由になり、従って一切の恐れを抱くことがなくなる、ということ。
我々は「自分がある」という自我意識を持っているために、現象にも感覚にも原因と結果という法則性も、さらに時間に対しても、当然それは「ある」と思い込み、その思い込みによってそれらに固執し、執着し、そこから差異や差別をもたらし、苦しみや不安、恐れや苛立ちなどのネガティヴな感情に翻弄される。それは誰のせいでもない。社会のせいでもない。みんな自分のせいなのである。これらが「ある」と思い込んでいる自分のせいであるということ。仏教は、これらは「ない」と言う。「なにもない」んだから、執着したり差別したり恐れたり不安になったりすることは「なにもない」。「なにもない」からこだわることは「なにもない」。心は限りなく自由であり、それが本当の自分であり、宇宙そのものの姿なのだ、といういうこと。これに気づくことを「空智」と言う。
この「六無畏」の教説は、心の進化過程を示していることに気づくだろう。1の凡俗一般が恐れを除く「善無畏」から始まり、次第に進化し、6の「一切自性平等無畏」の境地に到達する。菩薩行の最終到達点が、この「一切自性平等無畏」であり、これは前節の「真言菩薩行」を補足する教説とも言えるし、菩薩の修行の別の側面を表しているとも言える。だから重要なのだということ。
大日如来は続ける。
『秘密主よ。もし真言門において菩薩の修行をするならば、菩薩たちは幻想が生まれる十の喩え(十縁生句)をよく観察し、徹底して真言行に励めば、効験を証すことが出来るだろう。その十とは何かと言うと「幻」「陽焔(かげろう)」「夢」「影」「乾闥婆城(しんきろう)」「響」「水月」「浮泡」「虚空華(架空の華)」「旋火輪(松明を回して出来る炎の輪)」のことである。
秘密主よ。真言門において菩薩の修行をするものは、このように観察すべきである。
「幻」とは何か。それは呪術と薬剤による幻覚(薬力)と、さも現実のように作られる幻想(イリュージョン・色造)などのことである。それらは我々を惑わすためにしばしば有りもしないもの(希有)を見せる。あちこちに現れては(展転相生)あちこちに動き回り、しかも消えるでもなく消えないでもない。それはなぜか。それは本来、清らかであるからだ。このように真言行によって現れる幻も、真言を覚え唱えることによって、それを成し遂げることが出来るーーがしかし、その成し遂げた霊験もしょせん、幻に過ぎないと自覚すべきである。
また秘密主よ。陽炎(かげろう)は、本来なにもないものである。人々は妄想によってあるとかないと議論をされているが、真言行で現し出されたものも、ただの仮の姿である。
また秘密主よ。夢の中では一日、一時、一刹那、一年などの期間を過ごして、楽しいことや苦しいことを体験するが、目覚めれば何もなかったことになる。真言行で現して見せるのもこのようなものであると知るべきである。
また次に秘密主よ。影の喩えによってこのことを確認しなさい。真言行は能力を完成(悉地)させることにある。鏡が己れを映し出すのと同じようにように、真言行による能力の完成(悉地)も、己れを鏡で映しているのと同じだと知るべきである。
また次に秘密主よ。乾闥婆城(しんきろう)の喩えによって、真言行の能力達成(悉地)の境地が蜃気楼のようなものであるという認識に至るべきである。
また次に秘密主よ。
響き(音声・反響)によって、真言を唱える意義を知りなさい。声を発することによって、ただ反響が起こっているだけだと、真言行者は知りなさい。
また次に秘密主よ。月が出るから、その清らかな水の面に月が映るのである。このように、真言は月が照らす水のようだと、真言行者は人々に説くべきである。
また次に秘密主よ。天が雨を降らせて地面を打って泡を作るように、真言行によって達成された能力が様々に変化するのも、この泡のように果敢ないものだと知りなさい。
また次に秘密主よ。空という世界には人は存在しておらず、命も創造主いない。心が乱れているから、そのような妄想を抱くのだと知りなさい。
また次に秘密主よ。例えば人が松明を手に持って回せば、そこにさも炎の輪が出来たように見えるが、それも残像であると知りなさい』
と言われた。
真言行の真骨頂は、やはりなんと言っても超能力開発にある。真言を唱えることによって引き出される霊力、宇宙エネルギーと表現してもいい。この不思議な能力に惹かれて密教に興味を持つ人も多いだろう。確かに霊能力は存在する。だからといって、何も不思議なことではない。ごく一般的に、誰にでも備わっている能力なのである。ただ、その能力を引き出す遣り方が解らないだけ。密教は真言を唱えれば、それが可能だという。真言を唱え続けていると、確かに真言には何か不思議な力があるように感じる。小さなことだが、イメージしていたことが現実になって現れることが不思議と多くなる。そうゆう体験が増えると、だんだん確信めいた思いになる。ただし、それはあくまでも可能性である。そうゆう能力が欲しいと願い続けて、昼夜を問わず、何年も何十年も唱え続ければ、必ず達成される。この能力開発が達成されたことをシッディー(悉地)というが、それは、そうすれば誰でも達成出来るということ。
だが、達成された後が実は重要である。誰でもやれば出来るのに、何か自分だけ凄いことが出来たと勘違いし、自分は特別な存在だと思い込み、自惚れ、他者を見下し、傲慢になり、自分だけが人を救える救世主であるかのように振る舞うようになる。これこそ仏道から外れた外道の所業だが、まあ、そうゆう勘違い人間はほんの一部だとしても、やはりどこかの新興宗教の教祖さまのように、そうゆうタイプの人間が現れないとも限らない。だからその前にガツンと釘を刺しておく必要がある。それが「十縁生句」ということ。
自らが現した不思議な現象は、幻や陽炎や夢や影や蜃気楼や響きや水面に映る月や水の泡や夢想華や松明を回して出来る炎の輪のようなもので、ただの幻影に過ぎない。そんなものにうつつを抜かして満足しているようでは、真言行者失格である。そもそもお前は何のために修行をしてきたのじゃ。悟るためであろうが。菩提心を起こし、大きな慈悲の心で持って、衆生を救おうという決意で悟りを目指していたのではないのか。少し霊験が現れ始めたからといって、自惚れておるようでは修行などやめてしまえ。と、昔の偉大な阿闍梨先生から怒られるのが目に浮かぶようだ。もちろん真言行は霊能力を否定しているのではない。むしろ世のため人のために多いに活用することを推奨している。ただし、すべては「空」なのだから、現れた霊験は夢や幻と同じだという自覚を持って、くれぐれもそれに固執しないように、と戒めているのが「十縁生句」なのだと覚えておいて欲しい。
大日如来は続けてお説きになられた。
『秘密主よ。このように観察しなさい。
すべての現象は心の現れであり、夢幻のようなものだと悟る境地=『大乗句』
心の本質に気づき、それを探求しようとする境地=『空句』
どんな教理も論説も、如来の智慧を推し量ることは出来ないと悟る境地=『無等々句』
如来の心の本質を信じて、どんなものにも惑わされないという盤石の境地=『必定句』
真言行を修行することによって、如来が己れの心の現れる境地=『正等覚句』
次第に深淵な海底に至るように、密教の究極に至る境地=『漸次大乗生句』
以上の『六句』の境地を一歩一歩踏み締めるように、徹底的に己れの心を観察することによって、あらゆる法財を自らのものとし、数多くの衆生済度の技術と様々な智慧を生み出し、遍く広い真実の智慧で、あらゆるものの心の姿を知ることができるのである』
とお説きになられた。
「住心品」の最後の説法がこの言葉である。この「六句」が今までの教説の締めに当たる。現象は心の現れに過ぎない夢幻のようなもの(大乗句)は、「住心品」の各所で説かれてきた。まずこのことを肝に銘じる必要がある。いわば密教に進むための絶対条件というべき訓戒である。そしてその心の本質を知って探求すること(空句)が何より重要となる。すなわち心は「空」なのだ、と気づくまで探求し続けなければならない。その探求によって、如来の智慧の深淵さを悟り(無等々句)、如来の心の本質を信じ切って何ものにも惑わされなくなり(必定句)、すると真言行の修行によって、如来が己れの心に現れる境地に至り(正等覚句)、如来と自分はひとつであるという悟りを得る。そこから徐々に海底に沈潜してゆくように、密教の深淵な奥義を極めてゆく(漸次大乗生句)。この「六句」の訓戒を着実に踏み締め、徹底的に己れの心を観察する修行を続けて行けば、あらゆる仏の功徳を手にすることが出来、数多くの生けるものを救済する手段と様々な智慧が生まれ、その広大な智慧によって、あらゆるものの心を知ることができる、という。第一章の最後を飾るに相応しい、明快で重みのある教説である。
[総論]
そしてここから第二章に移る。前述したように、第二章からは具体的な密教の修法、つまり曼荼羅(マンダラ)の描き方とその心得、阿闍梨(あじゃり・指導者)の作法と弟子の迎え入れ方、その際の灌頂や真言や印契の遣り方や心構えなどが細かく明記されている。いわば実習編になる。これを専門用語で儀軌(ぎき)というが、第一章はその儀軌に進むための重要な教義が説かれているのである。ここをまず学んで心に刻みつけていなければ、絶対に儀軌には進めない。真言密教では、教義部門を「教相」、実践部門を「事相」と呼び、このふたつは両輪、両翼でどちらに偏ってもいけない、としている。とかく密教は三密行ばかりが注目され、その技法がどうのこうの、能力がどうのこうのと評価されがちだが、教相がお座なりになっては片手落ちである。いや、「大日経」の説く「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」の精神も知らないで事相に走るのは危険極まりない。従って、まずこの「三句の法門」の意味をしっかりと理解し、心に落とし込み、何度でも反芻し、その上で「大日経」の三密行の実践に臨まなければならない。
その意味で、この難解な「大日経」第一章「入真言門住心品」を、少なくとも密教に興味がある方々に、なるべく解りやすく現代語訳し、解説を加えてみた。多少の参考になれば幸いである。
<終>