威徳山金剛寺 密教の真髄

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「理趣経を読み解く」解説(前編)

<経題の解説>

理趣経(りしゅきょう)は、真言宗の常用経典である。常用経典とは、常に用いる経典ということ。大きな法要はもちろんのこと、お通夜、お葬儀、枕経、七日参り、四十九日法要、墓前供養、月命日、祥月命日、お盆、お彼岸、回忌法要などなど、真言僧はありとあらゆる法事でこの経典を誦える。いやむしろ、朝晩のお勤めには欠かさず当たり前にお唱えするのがこの理趣経である。そのくらい、真言宗にとっては無くてはならない経典ということ。もっとも真言宗以外でもお唱えする宗派もあり、そういう意味では理趣経は以外にポピュラーな経典であると言える。

この理趣経の正式名称は「大楽金剛不空真実三昧耶経・般若波羅蜜多理趣分(たいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう・はんにゃはらみったりしゅぶん)」という。般若理趣経という言い方もする。意味は「理趣経を読み解く」の現代語訳の冒頭でも書いたように、「大いなる快楽に至る、堅固で永遠の輝きに満ちた、嘘偽りのない悟りの境地を示したブッダの教え・悟りに至る智慧の完成という、その真理へと向かう道を説いた部門」ということになる。

この経典は、「金剛頂経を読み解く」の解説でも述べたように、「金剛頂経十八会(え)十万頌(じゅ)」という膨大な経典群のうちの第六会「大安楽不空三昧耶真実瑜伽(だいあんらくふくうさんまやしんじつゆが)」を簡略化したものとされている。実際、金剛頂経が十八会もあったということは文献的には実証されていないが、第六会は「理趣広経」として存在し、この理趣広経を極めてコンパクトにしたものが理趣経となる。理趣経の漢訳は数種類あるが、真言宗が常用経典としているのが、上に記した紀元八世紀の不空訳の「大楽金剛不空真実三昧耶経・般若波羅蜜多理趣分」となる。とにかく仏教経典には複雑な経緯を辿って成立したものも多く、まだその成立過程がよく判っていないものもある。そのひとつが理趣経ということ。ただ、理趣経の漢訳の原点を紀元七世紀の玄奘訳「大般若波羅蜜多経・第十会・般若理趣分」に求めることが出来、だから理趣経は「空」の思想を説いた大乗仏教の代表的な経典「般若波羅蜜多経」が密教経典として変容したものと捉えることが出来る。従って、理趣経は大乗仏教から密教へと移行する、その中間地点に位置する経典というということになる。

では、この不空訳「大楽金剛不空真実三昧耶経・般若波羅蜜多理趣分」というお経のタイトルを細かく紐解いてみよう。「大楽」は「大いなる快楽」、もっと露骨に言えば「大いなるエクスタシー」である。もっとも我々のような俗物が性行為の時に感じる恍惚感などとは比べものにならない、この世ではとても味わえない最高次元の快感であり、しかもそれは未来永劫に変わることなく続く。だから「大いなる快楽」なのである。ブッダでなければ味わえない快楽、とでも言おうか。「金剛」はこの「経典を読み解く」シリーズでしつこいほど述べているように、永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような悟りの心のエネルギーのこと。「不空」は「虚しくない」という意味。「嘘偽りない」と訳すことが出来る。それが一般的な解釈であり、その解釈に従って本経の現代語訳にも載せたが、ただし、私自身は、実は全く別な意味で捉えている。それは「不空」とは「空」ではない、ということ。前述のように、大乗仏教の根本理念がまさに「空」であり、この「空」は、「大日経を読み解く」の解説でも述べたように「なにもない」ということ。だから「不空」は「なにもないことではない」となる。「なにもないことではない」とはどうゆうことか。エネルギーがあるということ。この宇宙には、目には見えないが、大日如来の生命エネルギーが満ち溢れている。そのエネルギーが全宇宙を創造している。その密教の根源的な教理を「不空」という言葉で表現しているのではないだろうか。とは、全く私の瞑想によるインスピレーション。あなたはあなたのインスピレーション(霊感)で読み解けばいい。さて、次の「真実三昧耶経」は、「真実の悟りの境地を示した経典」と訳した。「三昧耶」は、「金剛頂経」の解説でも述べたように、「悟りの心のエネルギー」である。それは私たちすべてのものに平等にある心のエネルギーであり、宇宙の悟りのエネルギーである。だから「悟りの境地」と訳した。次の「般若波羅蜜多理趣分」の般若は、サンスクリット語プラジュニャー、あるいはパーリ語パンニャーの音写で、智慧のこと。波羅蜜多(パーラミータ)は悟りに至るための修行。「理趣」は、真理への道のこと。「分」はこの場合、「部門」と訳した。「大いなる快楽に至る永遠不滅に光り輝くエネルギーに満ちた、全宇宙の悟りの境地の真実を表した経典」における「悟りに至る智慧という真理への道を説いた部門」と意訳出来る。

さて、経題の解説も終えたところで本経の解説に入ろうと思うが、その前に是非とも皆さんにお伝えしておかなければならないことがある。それは、理趣経がちょっとヤバい経典であるということ。何がヤバいかというと、ご存知の方も多いと思うが、このお経が大胆に性愛を肯定し、奨励している点である。ただでさえタブーとされている愛欲に関することを、事もあろうに神聖な仏教経典が肯定的に説なえているということ自体、確かにヤバい。仏教はお釈迦さまの時代から、煩悩という悪い思いや行いを解脱、つまり煩悩という汚れた衣を脱ぐことで悟りを得ようとする教えである。その煩悩の最たるものである愛欲を肯定し、まして奨励するような経典は、もはや仏教経典ではない。そう固定概念に囚われている人は思うだろう。しかし理趣経は密教経典である。普通の仏教経典ではない。では普通の仏教経典と密教経典は何が違うのか。ズバリ、煩悩の捉え方である。この点を中心に、理趣経を読み解いて行こう。そうすれば、次第に理趣経が何を説きたかったのか、そして密教とは何かが理解出来るようになると思う。まずは乞うご期待である。

<経典の解説>

理趣経も、他の経典の例に違わず、まず「如是我聞」から始まる。「このように私は聞きました」という定型句である。この説明は「大日経」でも「金剛頂経」でもしているので、まずそちらを見てくださいね。ただし、よく皆さんが唱えたり聞いたりする機会が多い「般若心経」や「観音経」のような普通の仏教経典とは、まずそもそも読み方が違う。理趣経では、この部分を「じょしがぶん」と読む(もっとも般若心経に関しては、例外的にこの「如是我聞」の部分は省略されているが)。理趣経は経題を含め、全てこの一風変わった読み方をする。

では何でそんな読み方をするかと言えば、これが日本の漢字の古い読み方だから。これは中国の六朝(りくちょう)時代{紀元222〜589}の間に日本に伝わった漢字の読み方で、これを通称「呉音(ごおん)」読みという。呉は揚子江以南の、今の南京を中心にした地域で、「三国志」を知っている人には馴染みのある地名だろう。六朝時代はこの地方が首都であり、この地方で使われていた読み方だから「呉音」という。この「呉音」は、おそらく飛鳥時代の仏教の伝来と同時に我が国に正式に輸入されたもので、主に仏典を読む時や朝廷の公式文書を読み上げる時に使用したのだろう。あるいは白村江の戦い{紀元663}の時に朝鮮半島から大量の百済人が亡命し、彼らの使用していた「百済語」が「呉音」として伝承されたという説もある。その後、奈良時代から平安時代の初期に、中国は髄から唐の時代になり、日本は盛んにこの超大国に遣隋使や遣唐使を送り、中国の文化を吸収してゆくことになるが、この時期に日本に輸入されたのが「漢音(かんおん)」である。先ほどの「般若心経」や「観音経」は、この「漢音」で読まれていることになる。つまり、日本には「呉音」の方が「漢音」よりも先に伝来したということ。通常、私たちが使っている漢字の読み方は「音読み」と「訓読み」に分かれる訳だけれど、「音読み」の方は、この「呉音」読みと「漢音」読みの両方を自然に使い分けている。例えば「生」という漢字は、漢音読みでは「せい」であり、呉音読みでは「しょう」になる。何か規定のようなものがある訳ではないが、日本人は自然にこうして漢字を状況に応じて読み分けていることになるのである。

で、本題に戻ろう。どうして理趣経が古い方の「呉音」で読むかということだが、よく言われているのが、聞いても意味が理解出来ないようにしているから、というのがある。昔はお経を聞いただけでその内容を理解出来る、いわゆる貴族などのエリート層がいて、そうしたエリート層であっても解らないように、真言宗の坊さんは[わざと]呉音読みで唱えていた、ということ。では、どうして理趣経の内容を[わざと]解らなくしたのかというと、このお経がちょっとヤバい内容を含んでいるから。前述したように、理趣経は性愛を大胆に肯定している箇所がある。いや、全体を通して煩悩そのものをこれでもかと執拗に肯定している。これが実は密教の本質であるが、密教の深淵な教えを知らない素人が聞きかじった時、あらぬ誤解を生じやすい。だから聞いただけでは解らないようにするために[わざと]呉音読みにしているのだ、という。

こんな逸話がある。空海さんと最澄さんのお話。空海さんは密教を日本にもたらした真言宗の開祖。最澄さんは日本天台宗を興した偉大な始祖。この平安時代の二大巨塔は、奇しくも同じ遣唐使節団として中国に渡り、それぞれに密教と天台宗を学んで日本に帰国したのだが、その後、お二人は盛んに交流を深めることになる。大変勉強熱心な最澄さんが、わざわざ年下の空海さんに弟子の礼を取って密教を学ぼうとしたのがきっかけと言われている。しばらくお二人の交友は続いたが、ある時を境に決別することになる。それは、理趣経の注釈書である理趣釈経(不空訳)を、空海さんが最澄さんに貸さなかったことによるという。空海さんは、今まで気前よく最澄さんに密教関連の本を貸していたのに、理趣釈経だけは最澄さんが求めても貸さなかった。それが決別の理由とされている。なぜ空海さんは最澄さんに理趣釈経を貸さなかったのか。密教は体験の仏教である。仏と一体になる、つまり入我我入の体験が出来て初めて密教を会得することができる。そのためには師匠から灌頂の儀式を受け、師子相承の伝授を授かることが必要で、そうして初めて三密加持の修法や五相成身観などの密教修行を行うことが出来る。最澄さんのように文献だけ読んで密教の知識を頭に入れても何にもならないどころか、密教を誤解することにもなりかねない、と空海さんは思ったのだろう。かたや最澄さんは、法華経を最上の経典とする天台教学を日本に広めようとする中で、密教を含めた仏教の総合理論を構築しようとはかっていた。密教を天台教学のひとつに組み入れようとしたのである。

「言葉や文字で理解出来るレヴェルの教えが「顕教(けんぎょう)」つまり「顕れた教え」であり、それは今までの密教以外の一般の仏教のことを示す。密教は言葉や文字では到底測り知ることの出来ないブッダの深奥の教えであり、それは密教の修法によって直接ブッダの悟りを体験することである」。そうした密教に対する空海さんの考えと、最澄さんの思いは当然のように相容れなかった。特に理趣経は文字づらだけで理解しようとしても、その奥底のブッダの真意は読み解けないだろうし、その内容の過激さだけに興味を惹いて、結局は誤解することになる。理趣経の訳者の不空三蔵は、それを恐れて理趣経を門外不出と弟子に説き、自分が訳した理趣釈経を学んでからでないと読み解いてはいけないとした。おそらく最澄さんは、自身が持ち帰った理趣経の本文を読んで大いに疑念を抱き、その注釈書である理趣釈経を空海さんに貸してくれるようせがんだのだろう。だったらその前にしっかり密教修行に専念しなさい、と空海さんは最澄さんに言いたかったのである。

まあ、そのくらい理趣経は密教の深淵を説いた重要なお経であると同時に、一般の素人が見聞きしても解りようもないし、返って誤解するだけで危険だから(空海さんがあの最澄さんですら誤解をするのではないかと懸念を抱いたほどだから)、だから[わざと]お経を聞いても意味が解らないように呉音読みで唱えるのである、ということになる。

だが呉音読みだろうが漢音読みだろうが、そもそもお経を聞いただけで内容が解る人がどれくらいいるだろうか。昔も今もである。そうではなくて、奈良時代当時、エリート仏僧や高級官僚は漢文を呉音読みするのが慣例であり、呉音読みが出来なければ出世の道はないという風潮があった。後に入った漢音読みは庶民階級の読み方だというエリート意識が平安時代にも残り、それが天皇家や貴族階級の信仰を集めた真言宗に引き継がれ、今に至っているという説があるが、その説の方がより的を得ているように思う。

まあ、とにかく理趣経は呉音読みで唱えることが伝統である。もちろん「如是我聞」のところだけでなく経題を含めて全部そうである。では、なぜ真言宗ではそもそも理趣経が常用経典になっているのか。真言密教は「両部の大経」といって大日経と金剛頂経を二大根本聖典としている。このことは「金剛頂経を読み解く」の解説のところでも説明済みだが、じゃあ、常用経典を大日経か金剛頂経にすれば良いじゃないか、という声が聞こえてきそうである。それならズバリお答えしよう。大日経と金剛頂経にはお経に対する功徳の部分がないが、理趣経はその功徳の部分だらけであるということ。功徳とは、この場合、お経を唱えたり、それを心の中に落とし込んで日々忘れることなく持ち続けていれば、とっても良きことが起こりますよ、ということ。大日経の住心品は大日如来の説法だけで、お経を唱えることによる功徳は説かれておらず、金剛頂経に至っては金剛界大マンダラの生成ストーリーと修法マニュアルが描かれているだけで、お経を唱える功徳には少しも触れていない。理趣経は、このお経を唱えれば、あらゆる功徳があると説いている。それに大日経や金剛頂経と違って大変コンパクトで唱えやすい。だから真言宗では理趣経を常用経典として唱えるのである。

さて、そろそろいい加減に本文の解説に移ろう。まず理趣経の本文を唱える前に、真言宗では本文にはない、大日如来への帰依と弘法大師への感謝の言葉を唱える。「みょ〜びるしゃな〜」というところ。これを「勧請句(かんせいく)」とか「啓請句(けいせいく)」とか言う。要するに理趣経を唱えることで大日如来と弘法大師の霊エネルギーを招き入れ、そこから功徳を頂戴しょうという寸法である。本文に後から付け加えているので「付加句(ふかく)」という。「付加句」は本文の後にもあり「合殺(かっさつ)」と「回向文(えこうもん)」に分かれる。「合殺」は「ひろしゃだふ〜」と歌うように八回唱えることで、なぜ合殺なんて物騒な名前かというと、分散(殺)していた心を集中(合)するという意味。回向文はお経の最後に唱える定型句で「お経を唱えさせて頂いてありがとうございます。この功徳でみんなが幸せになりますように」的な意味合いがある。どのお経でもあるが、理趣経の場合は真言行者の悟りを開くことへの決意表明みたいなものになっている。では誰がいつからこの付加句を唱え始めたのかと言えば、実は誰も知らない。平安時代の末期には唱えられていたことは解っているが、それ以外のことは誰も知らない。真言宗のどんな高僧に聞いても、言葉を濁すことしか出来ない。まあ、慣習とはそんなもんである。この付加句の細かな説明はしない。ここはあくまでも理趣経の解説であって、理趣経の唱え方教室ではないので、知りたければ近くの真言宗の寺に行って住職にでも聞いてください。教えるか教えないかは、その住職しだいだが・・。

[序分の解説]

理趣経は「序分(じょぶん)」と「正宗分(しょうしゅうぶん)」である本編の「十七段」、そして最後に「百字の偈(げ)」、讃嘆(さんたん)・流通分(るづうぶん)で構成されている。「序分」はプロローグのことで、「大日経を読み解く」の解説でも述べたように、「このようにわたしは聞きました」の後に5W1H的なことが説かれている。つまり、誰が、いつ、どこで、誰に、ということ。真言密教では、これを「信・時・主・処・衆」の「五成就(ごじょうじゅ)」と呼んでいる。「このようにわたしは聞きました」が「信」、「いつ」が「時」、「誰が」が「主」、「どこで」が「処」、「誰に」が「衆」ということ。まず「信」とは、わたしがこのように聞いたそのことを全面的に信じます、という決意表明。「わたし」は誰でもない「わたし」だから、これからお経を読もうとする「あなた」のことであり、「あなた」はお経の登場人物のひとりとなって、そこに説かれていることを心の底から信じ切ると決意する。そうゆう真剣な気持ちがなければ読んではいけない、ということ。「時」は「その時」と書かれているところ。いつかと言えば、今この時である。今この時この瞬間、「わたし」は如来の説法を聞いている、と自覚しなさいということ。「主」は教主のこと。教えを説く主のことであり、理趣経では大日如来である。「処」は説法の場所のこと。教主がどこで説法したかということ。「衆」は教主の説法を聞く側のこと。「わたし」もそのひとりである。この「五成就」を意識しながら「序分」を読み解いてゆこう。

『わたしはこのように聞きました。
その時、世尊ーーそれはすなわち、極めて勝れた悟りに至ったすべての如来が、堅固で永遠の光に満ちた悟りの智慧を頭上に灌ぐ(灌頂)ことにより、もはやすべての如来のブッダたる証しの宝冠を被って三界(欲界・色界・無色界というすべての世界)の法王となり、さらにすべての如来のあらゆる智慧を極めて悟りの境地を自由に遊び、すべての如来が持つあらゆる作用の力によってすべてを平等にし、あらゆる生きとし生けるものの願いを余すところなく叶え、永遠に続く過去、現在、未来の、その瞬間の身体、言葉、意識の活動を滞りなく円滑にするーー堅固で永遠の光に満ちた大いなる毘盧舎那如来(大日如来)は・・』

これが序分の冒頭部分である。金剛頂経のプロローグと見比べてみれば、この両経が極めて近い関係にあるのが解ると思う。多少の表現の違いはあるものの、まず大日如来がすべての如来によって灌頂を受けて宝冠を被り、全宇宙の法王の位に就くところはほぼ同じである。つまり理趣経は金剛頂経の流れを汲んだ金剛頂経系の経典であり、いわば金剛頂経のサイド・ストーリー的な経典ということになる。従って、理趣経を読み解くには、まず金剛頂経を読み解いておかないとチンプンカンプンになる。よろしければ、金剛頂経の解説から読んでもらうとありがたいです。さて、すべての如来によって全宇宙の法王の位に就き、あらゆる智慧とどんなことでも可能な力を身につけ、あらゆる生きとし生けるものの願いを余すところなく叶え、時間を超越した全宇宙の活動原理、すなわち身体活動、言語活動、精神活動の「三密」をことごとく円滑にする大日如来様であるが、この偉大な世尊が理趣経の教主と言うことになる。

では大日如来様は、どこで説法をされたかと言うと、すべての如来によって賛美され称讃される、彼らがいつも遊びに来るところの他化自在天(たけじざいてん)の王宮の中にある大摩尼殿(だいまにでん)である。摩尼とはどんな願いでも叶えるドラゴンボールのような宝珠のことであり、そこは何しろとっても豪華絢爛に飾り立てられていて、あらゆる快楽の極みの、まさにパラダイスのようなところ。仏教には、欲界・色界・無色界という三段階の精神世界があることは、すでに「大日経を読み解く」で説明しているが、この最初の段階の最底レヴェルの欲界には六欲天というの六つの欲望の天界(人界のすぐ上)があり、その第六番目の最上級の欲望塗れの天がこの他化自在天である。他者を快楽に引き込みそれを自らの快楽にする天国ということだが、そこは欲望の魔王である第六天魔王の天である。お釈迦さまが菩薩樹の下で悟りを開こうとするのを邪魔したのが、波旬(ハピーヤス)とか魔羅(マーラ)とかと言う魔王であるが、その魔王が第六天魔王。仏教の教化を阻み快楽に引き込む、仏教徒にとってはさも恐ろしい魔王である。ちなみに比叡山を焼き討ちし女子供まで殺した織田信長を、当時の民衆は第六天魔王と呼んで恐れたという話は、歴史好きな人ならご存知だろう。

しかしよりにもよって、なぜ大日如来はそんな欲望塗れの世界で説法されたのだろうか。しかもそこはすべての如来たちが大好きで、いつも遊びに来ているという。金剛頂経では、大日如来の説法の場所が色界の最上天である色究竟天であることは「金剛頂経を読み解く」の解説ですでに話しているが、その物質界の最上天である色究竟天よりもさらに程度の低い、欲望だらけの世界を大日如来が説法の場所に選んだのはなぜか。まず理趣経という密教経典の深い意図がそこにある。今までの仏教の概念を根本的に覆す核心。それが他化自在天での説法ということ。通常の経典は、大乗仏教を含め、お釈迦さまが実際に説法したであろう場所が選ばれている。現実に存在している霊鷲山(りょうじゅせん)などで、お釈迦さまが弟子や数多くの民衆に向かって教えを説くという歴史的な背景をベースにしている。ところが密教経典はまったく違う。我々がいる世界とは別の、高次元の世界が舞台となる。しかも説法を聞く聴衆は人間ではない。如来であり菩薩である。大日経も金剛頂経も、この理趣経もそうである。つまり我々が預かり知らない高次元の世界を舞台にして、高次元の存在を聴衆にして大日如来は説法しているのである。どういうことかというと、通常の経典は、悟るための教えを説いているのに対し、密教経典は悟っているものに対して教えを説いているということ。そこが決定的な違いである。そこでは我々の次元の常識はまったく通用しない。まして今までの仏教の概念では推し量ることすらできない。つまり密教は悟るための教えではなく、悟っているものへの教えということ。悟っていなければ密教経典は読み解けないし、密教は解らない。じゃあ、あんたは悟っているのか、という声が聞こえてくるが、もちろん悟っている。ただし、思い込みである。悟っていると思い込む、それは全宇宙のエネルギーである大日如来がそのままわたしであると気づくこと。ああ、わたしは宇宙そのものだったのだ、と気づいた瞬間。それが悟りである、と思い込む。その思い込みに気づかせてくれるのが密教であり、密教経典であると言える。そして経典を開いた瞬間から、わたしは瞬く間に次元を駆け上り、高次元世界で如来や菩薩といっしょに大日如来の説法を聞いている。そう思い込むことが密教経典を読み解く秘訣であり、またそう思い込まなければ理解できないし、返って誤解を招くことになるのである。まさに理趣経がそれである。それを我々の次元の常識に当てはめて理解しようとすること自体、大きな誤りとなる。大日如来が欲望塗れの他化自在天で説法した理由、それはあんたたちの常識を一旦、すべて捨て去って、悟りの意識になりなさい、と示唆するためなのである。私たちはその意識で理趣経を読み解いていかなければならない。

「五成就」のうちの最後が「衆」である。誰が聴衆か、ということ。理趣経では、金剛手菩薩(こんごうしゅぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)、金剛拳菩薩(こんごうけんぼさつ)、文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)、纔発心転法輪菩薩(さいほっしんてんぽうりんぼさつ)、虚空庫菩薩(こくうこぼさつ)、摧一切魔菩薩(さいいっさいまぼさつ)という八大菩薩を筆頭に、八十俱胝(くてい)、つまり八十億の菩薩衆が聴衆となる。専門用語では対告衆(たいごうしゅ)と言い、如来から選ばれた、如来の説法を聞けるレヴェルのものたちのことである。その厳選された八十億の菩薩衆のうちのひとりが「あなた」だということ。光栄に思わなければならない。なお、この八大菩薩は金剛頂経の対告衆である八大菩薩とまったく同じである。金剛頂経の対告衆の全体数は九十九俱胝、すなわち九億九千万だから若干の数の違いはあるものの、対告衆の主要メンバーは金剛頂経と変わらない。ただ、金剛頂経の八大菩薩は名を連ねているだけだが、理趣経では彼らは本編(正宗分)の十七段に渡って大変重要な役割を果たすことになる。特に金剛手菩薩である。実は彼は金剛薩埵のこと。金剛薩埵は大日経でも、金剛手秘密主という名前で大日如来に直接質問を投げかけることの出来る特別な存在であり、金剛頂経では全宇宙の悟りの心(菩提心)としてマンダラ世界を構成する菩薩たちを生成するエネルギーの源であり、大日如来のエネルギーの顕現となる。両経の主人公は金剛薩埵ということである。詳しくは両経の解説を読んでね。そして理趣経の主人公も金剛薩埵。密教がいかに金剛薩埵を重要視しているかが解る。そして密教は言う。あなたもわたしもみんなみんな、実は永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような悟りの心のエネルギーとしての存在、すなわち金剛薩埵なんだよ、と。

さて、こうして他化自在天の王宮の中にある大摩尼殿で、大日如来は八大菩薩を筆頭とする八十億の菩薩衆に向かって説法をする訳だが、その教えは初めも善く、中ほども善く、終わりも善く、内容は極めて素晴らしく巧妙で、純粋で欠けるところがなく、清らかで穢れないものでした、という。どんな素晴らしい教えなのだろう。さっそく聞いてみよう、ということで、いよいよ本編に入ろう。

[初段・大楽の法門の解説]

『わたしはこれから、すべのものは清らかである、という教えを説く。それはこのようなものである。

性行為による恍惚感(エクスタシー)は清らかであるから、菩薩の境地である。

愛欲の矢を放つことは清らかであるから、菩薩の境地である。

性的な接触は清らかであるから、菩薩の境地である。

愛欲による束縛は清らかであるから、菩薩の境地である。

性行為によって得られる支配感は清らかであるから、菩薩の境地である。

愛欲の眼差しを向けることは清らかであるから、菩薩の境地である。

性的な悦楽感は清らかであるから、菩薩の境地である。

性愛の感情は清らかであるから、菩薩の境地である。

性行為によって慢心する感情は清らかであるから、菩薩の境地である。

異性を意識して外観を飾る行為は清らかであるから、菩薩の境地である。

性行為によって満たされた気分に浸る感覚は清らかであるから、菩薩の境地である。

性行為中の光り輝くような感覚(オーガスムス)は清らかであるから、菩薩の境地である。

肉体的な快楽は清らかであるから、菩薩の境地である。

色欲をもたらす事象は清らかであるから、菩薩の境地である。

色欲をもたらす声は清らかであるから、菩薩の境地である。

色欲をもたらす香は清らかであるから、菩薩の境地である。

色欲をもたらす味は清らかであるから、菩薩の境地である。

それはいかなることか。あらゆる事象はその本性において清らかであるからである。従って、悟りに至る智慧の完成(般若波羅蜜多)そのものも清らかなのである』

と大日如来はお説きになられた。いきなり初段から、大日如来さまは理趣経のメインテーマをぶち上げられた。これが世に言う「十七清浄句(しょうじょうく)」である。長い間、理趣経の内容が世間に隠匿され続けた理由は、ズバリ、この「十七清浄句」の文言があるからである。性愛行為による感覚、肉体的な快感、恍惚感や絶頂感、愛欲の感情、愛欲をもたらす視覚的要素、声や匂いや味に至るまで、十七の項目に分けて事細かに、露骨とも言える表現で描写している。いや前述した玄奘三蔵訳の「大般若波羅蜜多経・第十会・般若理趣分」では六十九項目もあり、チベット訳本の中にはなんと百五十という膨大な数の性愛描写が書かれているものもある。これが仏教経典なのか、と耳を疑いたくなる人も多いと思う。また逆に、この部分だけクローズアップして、性行為は菩薩もしてるぞ、と興味本位に捉えて、密教はセックス礼賛宗教だ、などと間違った認識を持つ輩も出てくるだろう。だから理趣経はちょっとヤバい経典なのである。

しかしよく読み解いてみれば解るが、大日如来はまず「わたしはこれから、すべてのものは清らかである、という教句を説く」と前置きをしている。すべてのものは清らかであるのだから、性行為も清らかなのだ。全宇宙に存在するありとあらゆるものいっさいがっさい何もかも、清らかでないものはない。その境地に至っているのが菩薩であり、菩薩の境地であるからこそ、愛欲も清らかなのだ。言えば菩薩の境地に至っていない凡俗、やれきれいだ汚いだ、好きだ嫌いだ、善だ悪だ、などと自分勝手な尺度で価値判断し、あらゆるものを差別化しているような底レヴェルの我々俗物には到底計り知ることの出来ない高次元の世界の話になる。つまりは悟っていなければ解らないし、それを聞くことすらも本来は出来ない。次元が違うのである。悔しければ悟ればいい訳だ。八十億の菩薩たちの中のひとりとして、欲望の魔王の煌びやかな宮殿の中で、大日如来の説法を直接聞ける高次の存在になればいい。そのためには「すべてのものは清らかだ」という悟りの完成に至るための智慧を磨く修行をしなければならない。この「悟りの完成に至るための智慧を磨く修行」のことを「般若波羅蜜多」という。だからこそ、般若波羅蜜多そのものが清らかなのだ、と大日如来は説かれているのである。

ここでもう少し掘り下げてみよう。じゃあ、「般若波羅蜜多そのものが清らか」とはどういう意味なのだろう。般若は前述のように智慧のこと。では具体的に何の智慧なのか。「空」を悟る智慧のことである。金剛頂経には「空智」と表現されている。では「空」とは何か。大日経では「なにもないこと」と説いている。心の本質は「なにもない(空)」のだから、そこから現れる現象世界は幻影に過ぎない。それが「空」を悟るということ。つまり般若波羅蜜多とは、すべていっさいがっさい何もかも「なにもないこと」を悟る智慧の修行ということになる。ただし密教では、この「空」をもっとポジティブに捉えている。それは前述したように「不空」つまり「なにもないことではない」、すなわちエネルギーがあるということである。なにもないように見えても、そこには宇宙を絶え間なく創造し続ける強烈なエネルギーに満ち溢れている。この創造エネルギーの溢れんばかりのパワーがすべての活力の源であり、これこそが性エネルギーなのだ。つまり大日如来はここで、般若波羅蜜多とは現象として現れるすべてのものは「なにもない」からこそ純粋無垢、すなわち「清らか」なのだと悟ることなのだ、と説いているのと同時に、その「清らか」な愛欲のエネルギーこそすべての命の源なのだ、だから空智を悟った菩薩の心は純粋無垢、何ものにも穢されることがないからこそ、愛欲は徹底的に「清らか」であり、そして菩薩は愛欲を想いのままに満喫することが出来るのだ、と説いていることになる。お解りになりましたか?。「金剛頂経を読み解く」の解説を読めば、納得するところもあると思うが、初段である「大楽の法門」で言いたかったのはまさにこのことに尽きる。

さて、こうした有り難い教えを説いた後、大日如来は聴衆の筆頭にいる金剛手菩薩すなわち金剛薩埵にこう告げる。

『金剛手よ。もしこの「性愛は清らかで菩薩の境地であることを示す、悟りの智慧に至る十七の教句」を聴くことがあったなら、悟りを目指す修行の過程において、智慧を封じるすべての障害(一切蓋障)、及び悪しき想いや行為による障害(煩悩障)、誤った教えの影響を受けて正法を疎んじる障害(法障)、前世の因縁による障害(業障)という四つの障害が広く深く蓄積しようとも、決して地獄などの悪しき世界に堕ちることはない。またたとえ重き罪を犯そうとも、その罪を消し去ることは難しいことではない。もし日々、この教えを読誦し暗唱し想い巡らせるのであれば、この世は永遠に光り輝く悟りの世界であることを、たちどころに悟るだろう。さらに世界を自由に操り作ることが出来、この上ない快楽と喜びを享受することが出来るであろう。これにより「十六大菩薩生」という境地に至り、如来並びに執金剛の悟りを得ることが出来るだろう』と・・。

金剛手とは金剛薩埵のこと。すでにこの「密教経典を読み解く」シリーズでは何度も述べているように、金剛薩埵は全宇宙の生命エネルギーである大日如来の顕現化である。大日如来イコール金剛薩埵ということ。だから大日如来の教えを聴く対告衆であることは矛盾している。ではなぜ大日如来はあえて金剛薩埵に教えを説いているのか。それは金剛薩埵は「わたし」だからである。今はまだ自分が金剛薩埵であることに気付いていない愚かな「わたし」に、大日如来は『お前はわたしなのだよ』と教え諭しているのである。だからこの「十七清浄句」という深淵な教句を聞いただけで、どんな障害に遭っても、どんな悪いことをしても地獄なんかには堕ちないよ。むしろこの教え(理趣経という経典)を肌身離さず唱え続ければ、この世は永遠に光り輝く悟りの世界であることを、たちどころに悟ることが出来、世界を自由自在に操り作り上げることが出来、この上ない快楽と喜びを享受することが出来、「十六大菩薩生」という宇宙の創造エネルギーを手にすることによって如来や永遠に光り輝く悟りのエネルギーを心に持つもの(執金剛)、つまり高次元の存在と同じになれるんだぞ。なぜなら『お前はわたし』なのだから、ということである。

十六大菩薩とは、金剛頂経を読めば解るが、大日如来の金剛界大マンダラ生成システムにおけるメインである。大日如来がまず最初に自らのエネルギーで生成した菩薩たちで、自分の東南西北に座す四方四仏、すなわち東方の阿閦如来、南方の宝生如来、西方の観自在王如来(阿弥陀如来)、北方の不空成就如来に対し、それぞれ阿閦如来には金剛薩埵、金剛王菩薩、金剛愛菩薩、金剛喜菩薩を、宝生如来には金剛宝菩薩、金剛光菩薩、金剛幢菩薩、金剛笑菩薩を、観自在王如来には金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩を、不空成就如来には金剛業菩薩、金剛護菩薩、金剛牙菩薩、金剛印菩薩を提供することで、マンダラ宇宙の創造の契機としている。この十六大菩薩を生み出す宇宙創造エネルギーを「十六大菩薩生」という。ただし、この「十六大菩薩生」のエネルギーの源となっているのが実は金剛薩埵であり、大日如来の菩提心であり創造エネルギーである金剛薩埵が、十六大菩薩を含めた金剛界マンダラのすべての菩薩を生み出す源なのである。つまりこの全宇宙を絶えず創造し続けているエネルギーの根源が金剛薩埵ということ。言い換えれば、大日如来は宇宙の純粋な生命エネルギー、金剛薩埵はその生命エネルギーから生まれた宇宙創造の活動原理ということになろうか。後に真言宗では、この「十六大菩薩生」を体現するために月の満ち欠けをそれに当てはめ瞑想する行が発達するが、詳しいことはここでは割愛する。

このように金剛薩埵は、すべての如来が持つすべての生きとし生けるものを悟りに引き入れる力を持ち、すべてのマンダラ世界(悟りを体現した世界)で最も活躍する存在であり、つまり全宇宙の創造主であり、永遠不滅に輝き続けるダイヤモンドのような光のエネルギーそのものであり、欲界・色界・無色界という三段階の精神世界すべてに渡って蔓延る悪をこらしめる力を持ち、全宇宙のいっさいがっさいすべての真理を完成させているのである。そんな超スーパーヒーローの金剛薩埵は、大日如来の有り難い教えをお聞きすると、その教えを明確に表現しようと、お顔に笑みをたたえながら左手に金剛慢の印を結び、右手に五智(金剛界五仏の智慧)を象徴する五鈷杵を持って振り上げるポーズ(打擲)をしながら、大いなる快楽に至る悟りのエネルギーである菩提心を、種字(しゅじ)に表して唱えた、という。

種字(しゅじ)は、「金剛頂経を読み解く」の解説でも説明したように、ブッダの悟りを梵字一文字で表した言葉のエネルギーである。金剛薩埵の悟りのエネルギーを表す一文字は「バン」であり、これが「三密」のうちの口密、つまり言語活動に当たる。金剛慢の印と五鈷杵は身密、つまり身体活動であり、この時の金剛薩埵の大楽の境地が心密、つまり精神活動となる。こうして金剛薩埵は「大楽」という自らの悟りの境地を「三密」によって表現したということである。

なお、金剛界九会マンダラの理趣会は、この「十七清浄句」をベースにして描かれている。この点は重要なので解説しておこう。以下が理趣会のマンダラである。

1:内枠中央・・金剛薩埵

2:内枠東(下)・・欲金剛菩薩

3:内枠東南(左斜め下)・・欲金剛女菩薩

4:内枠南(左)・・触金剛菩薩

5:内枠南西(左斜め上)・・触金剛女菩薩

6:内枠西(上)・・愛金剛菩薩

7:内枠北西(右斜め上)・・愛金剛女菩薩

8:内枠北(右)・・慢金剛菩薩

9:内枠北東(右斜め下)・・慢金剛女菩薩

10:外枠南西(左上の角)・・金剛嬉菩薩

11:外枠北西(右上の角)・・金剛鬘菩薩

12:外枠北東(右下の角)・・金剛歌菩薩

13:外枠東南(左下の角)・・金剛舞菩薩

14:外枠東(下)・・金剛鉤菩薩

15:外枠南(左)・・金剛索菩薩

16:外枠西(上)・・金剛鏁菩薩

17:外枠北(右)・・金剛鈴菩薩

以上、十七尊が理趣会の構成要員である。「十七清浄句」の十七と架けていることは確かである。実際、金剛薩埵を中心に東南西北にそれぞれ欲金剛菩薩、触金剛菩薩、愛金剛菩薩、慢金剛菩薩が配置されているが、彼らは「十七清浄句」のうちの最初の五句と対応している。すなわち、

妙適(愛欲のエネルギー)・・金剛薩埵

欲箭(愛欲の放出)・・欲金剛菩薩

触(性行為での接触)・・触金剛菩薩

愛縛(相手への執着意識)・・愛金剛菩薩

一切自在主(性行為による支配感)・・慢金剛菩薩

となる。金剛薩埵の愛欲のエネルギーが、四つの要素に分割されて四方に放射されたイメージを持てばいい。この四方四菩薩を「欲触愛慢(よくそくあいまん)」とワンセットで呼称することがあり、まあ、これは覚えやすくて便利である。そして「欲触愛慢」の四方四菩薩の性的パートナーとなるのがそれぞれ欲金剛女菩薩、触金剛女菩薩、愛金剛女菩薩、慢金剛女菩薩である。ただし、四菩薩の根源が愛欲のエネルギーである金剛薩埵なのだから、この四女菩薩もみな金剛薩埵の愛妃ということになる。さらに金剛界大マンダラ(成身会)にも登場する金剛嬉菩薩、金剛鬘菩薩、金剛歌菩薩、金剛舞菩薩、いわゆる「嬉鬘歌舞(きまんかぶ)」の四女菩薩も、金剛薩埵の遊び女(あそびめ)であり、門衛を務める金剛鉤菩薩、金剛索菩薩、金剛鏁菩薩、金剛鈴菩薩、いわゆる「鉤索鏁鈴(こうさくされい)」も、性別ははっきりとはしていないまでも、金剛頂経のコンテキスト(文脈)から女菩薩と読み解ける。金剛薩埵の周りにはセクシーで美しい女性尊ばかり、まさにハーレム状態である。男性諸君、羨ましいですか?。でも実はあなたも金剛薩埵なんですよ、とは何度も述べていることだが、理趣経では特に、金剛薩埵を愛欲のエネルギーと説いているところに特徴である。いや、というより、そもそも金剛薩埵とは愛欲のエネルギーのことであり、この愛欲のエネルギー、言い換えれば性エネルギーが宇宙の創造エネルギーである、と密教は説いているのである。生物はオスとメスに分かれ、両者の性行為によって新たな子孫を産む。オスだけ、あるいはメスだけでは子孫が作れず種は当然の如く滅びる(もちろん自己増殖する生物も存在するが、ここでは例外として除く)。人間のように愛欲という欲求がなければ性行為に至らない場合もあるが、そうではなく、極めて本能的に交合するのが生物における生命活動である。それは種の保存を前提とした実にごく自然な営みであり、この生命活動を否定することは種の滅亡を意味する。ところが人類は、いつの頃からか、この生命活動の原動力である性行為を羞恥的な、公序良俗に反する行為と規定するようになった。公然とセックスの話をすることは極端に憚られ、そんな人間は品性下劣の極みであると周りからも言われる。文明度が高くなれば高くなるほど、その傾向は強くなっていった。特に宗教の世界がそうである。洋の東西を問わず、キリスト教も儒教も仏教も、その意味合いは違うが、愛欲の否定を説き、古くから現代に至るまでずっと民衆を先導して来た。

しかしよく考えてみると、なぜ愛欲を否定しなければならないのか。生命活動の原動力であり、種の保存のエネルギーである愛欲が、何を根拠に否定されなければならないのか。みなさんも、考えてみてください。わたし個人では否定する根拠が全く見当たらない。青空のもと、若者たちが浜辺でセックスしていると、途端に警察に通報される。自分たちも家やホテルでしているのに、である。なぜセックスを隠れてしなければならないのだろう。そんなに後ろめたいことなのか。何がそんなに悪いのだろう。映像での性描写はあそこが映っているかいないかが検挙の判断になる。なぜだろうか・・。突き詰めてゆくと、それは単に宗教的な洗脳によるものに過ぎない。その宗教観が倫理という仮面を被って常識化しただけで、そこには何の論理的な根拠はない。だから密教は高らかに宣言する。愛欲は素晴らしい。愛欲こそ宇宙創造の生命エネルギーなのだ、と。世俗の常識の殻をブチ破らなければ、悟りのステップは踏めない。わたしはそう思っている。余談でした。

[第二段・証悟の法門の解説]

さて、第二第に移ろう。第二段は「証悟(しょうご)の法門」と呼ばれている。「証悟」は悟りを証(あか)すということ。何の悟りなのか、ではその内容を見てみよう。

その時です。世尊であられる大日如来さまは、再び法を説かれました。

『すべての如来に共通する悟りの智慧とは何か。それは(四智の)如来の静寂な境地から生み出された「すべては平等なのだ」という智慧であり、その(四つの)智慧こそが真理に至る唯一の智慧なのだ。それはどのようなものか。

まず「金剛平等」である。あらゆるものが永遠不滅に輝き続ける平等である。なぜならそれは、(一切平等という)如来の偉大な悟りの現れが、ダイヤモンドのように堅固不滅であるからである=大円鏡智(阿閦如来)。

次に「義平等」がある。あらゆるものが差別なく恩恵を受ける平等である。なぜならそれは、(一切平等という)如来の偉大な悟りの現れが、一様にあらゆるものに福徳を施すからである=平等性智(宝生如来)。

次に「法平等」である。あらゆるものにブッダの教えが行き渡る平等である。なぜならそれは、(一切平等という)如来の悟りの現れが清らかであるが故に、すべてに浸透するからである=妙観察智(観自在王如来)。

次に「一切業平等」である。あらゆるものに差別なく働く平等である。なぜならそれは、(一切平等という)如来の偉大な悟りの現れが、その本質において例外なく分け隔てなく働くからである=常所作智(不空成就如来)。』

いわゆる「四平等の教説」である。初段のインパクトがあまりにも強かったので、この第二段はなんか肩透かしを喰らったようで面白みに欠ける、なんて思ったらバチが当たる。ここには金剛頂経系の密教にとって最も重要な教理が含まれている。文面には具体的に書かれてはいないが、「四智」つまり金剛部、宝部、蓮華部、羯磨部の智慧がここでは説かれているのである。チンプンカンの人は、まず何よりも「金剛頂経を読み解く」の解説(前編)を読んでくださいね。もう一度短かく説明すると、金剛界大マンダラ(成身会)の中核を構成する中心の大日如来とその東南西北に座す四如来の智慧を合わせて「五智」というが、そのうちの大日如来の智慧を除いた東方の阿閦如来と南方の宝生如来と西方の観自在王如来と北方の不空成就如来の智慧が「四智」である。この四如来は金剛部、宝部、蓮華部、羯磨部という四つのカテゴリーに分けられ、それぞれの如来の智慧が、阿閦如来は大円鏡智、宝生如来は平等性智、観自在王如来は妙観察智、不空成就如来は常所作智ということ。そしてその「四智」をすべて合わせたのが大日如来の智慧である法界体性智であり、それは宇宙そのものを総体とする絶対的な智慧を意味している。「四智」については上記の教説に書いてあるから、もう一度戻って読み返してみてね。で、この四方四如来の智慧が一切平等なのだとここでは説かれているのである。密教の智慧は能動的な作用を意味している、とは「金剛頂経を読み解く」の解説で説明済みだが、この「四智」を一言で表現すれば、大円鏡智は「悟り」、平等性智は「福徳」、妙観察智は「真理」、常所作智は「働き」となり、それらは全宇宙のあらゆるものに平等に作用しているのだ、とここで大日如来は説かれていることになる。そして聴衆者つまり対告衆の筆頭である金剛薩埵に向かって、もし四智の如来から生み出された、この「四平等の教え」を読誦し、常に身に保ち続けるのなら、たとえ今ここで数え切れないほどの罪を犯しても、堕ちるべきあらゆる悪しき世界を超越し、必ずや悟りに向かう道場に座して、速やかに最高の悟りを得ることが出来るだろう、と言われた。さて罪とはいったい何だろう。初段でも同じように、どんな重き罪を犯しても地獄などの悪しき世界には堕ちることはない、と説いている。この件は第三段で深く考察せざるを得なくなるから、今は保留にしておく。

こうして教えを説き終わると、大日如来さまは自らその「四平等」の教えを明確に表現しようと、お顔に微笑みを浮かべながら、両手で智拳印を結び、すべてはその本質において一切平等である、という悟りの心を「アーク」という種字を声に出すことによって表されたのでした・・。ということで第二段の証悟の門は幕を閉じる。「証悟」とはつまり「四智」を明らかにすることであり、それらが一切平等であるということわりを説いていることになる。と同時に、ここで大日如来が自ら三密によって悟りの境地を表したのは、この四智の総体である法界体性智を自らで表現しようとしたから、ということである。さて、では理趣経最大の難関である第三段・強伏の法門に移ろう。

[第三段・強伏の法門の解説]

『その時でした。調伏難調釈迦牟尼如来さまは・・』から第三段は始まる。あれ?大日如来さまはどこ行っちゃたの、ってなる出だしである。「調伏難調」は、何としても正法に従わないものを徹底的にこらしめ、強引に悟りに向かわせることである。それが釈迦牟尼如来、つまりお釈迦さまということ。お釈迦さまは、菩薩樹の下で悟りを開こうとした時、それを阻止しようと欲望の魔王(前述)があの手この手で邪魔をするが、結局、それら魔王の手先を退けて改心させ、そしてみごとに悟りを開きました、という逸話があるが、これは「降魔成道」のエピソードとしてあまりにも有名である。だからお釈迦さまは魔王すらもやっつける凄いお力を持っているのは確かだが、でもなぜこの第三段でひょっこり現れたのだろう。実は初段の大毘盧舎那如来と、第二段の毘盧舎那如来は、同じ大日如来でも違う大日如来なのだ、という訳の分からない解釈が古来よりあり、諸説芬々、深読みし過ぎてみんなでドツボにハマっている状態である。しかしこのことについては明快に解答出来る。初段の大毘盧舎那如来は、純粋なエネルギーとしての大日如来、第二段の毘盧舎那如来はそのエネルギーが顕現化して姿を顕した大日如来である。だから微笑みを浮かべて智拳印を結び、種字を発する姿が我々にも見えた訳である。大日如来はそもそもエネルギーそのものだから、如来であろうと菩薩であろうと誰にも姿は見えない。しかしそれでは、特に次元の低い我々には、その有り難い教えも聞き取れず、ずっと闇の世界をさまようばかり。それではいけないということで、大日如来さまはあえて我々にも解るように姿を顕わすのである。ただし、あくまでも高次元の世界においてだが。高次元の世界では何でも出来る。意識するだけで、どんな姿にでも誰にでも変身出来る。だから第三段では、悪しきものをこらしめる能力を持つお釈迦さまの姿に変身した訳である。

なお、この釈迦牟尼如来は阿閦如来であるという密教的解釈がある。またさらにややこしいことになるが、阿閦如来の信仰は実は意外に古く、阿弥陀信仰よりも前に遡るらしい。他国土のブッダという発想は、お釈迦さまが入滅されてこの世で救世主が居なくなってしまった。だからそれに変わって、東方・妙喜世界で教主をしながら我々を救ってくださる阿閦如来に救いを求めようという信仰にシフトしたのだということ。ただ、後に現れた西方・極楽浄土の阿弥陀如来の方が人気が高くなり、阿閦信仰は次第に影が薄くなってしまった。だからかなり以前から、おそらく阿閦如来の由来を説く「阿閦仏国経」成立以前の大乗仏教興隆期前から、阿閦如来と釈迦如来を同一と見なす信仰が存在していたと思われる。阿閦如来の印相の触地印が、前述したお釈迦さまの降魔調伏を象徴する印と同じであることが何よりの証拠となる。要するに阿閦如来イコールお釈迦さまという構図はごく自然に成り立つ訳である。

ではでは、ここで阿閦如来を引き合いに出したのはなぜか、といえば、その理由は二つある。ひとつは本文に関わることで、阿閦如来が何ものにも動じない、つまり不動の如来であること。「阿閦仏国経」によれば、大目如来のもとで無瞋恚(むしんに)、無淫欲の誓いを立てて修行し、それを達成してブッダとなったとあり、つまり「貪瞋痴(とんじんち)」という三大煩悩を克服し、それらに全く動じず惑わされない静寂な境地に至った如来ということが理由のひとつ。もうひとつは、密教教理に関わることで、この第三段を皮切りに、これから四智如来と前述の八大菩薩が複雑に絡み合い、理趣経世界を形成してゆくことになるが、その第一弾が阿閦如来ということ。この点は各段を読み解いてゆくうちに理解してゆくと思う。

さて、この世尊であられる大日如来さまこと釈迦牟尼如来さまこと阿閦如来さまは、どのような教えを説いたかというと、

『すべてのものごとは一切平等であり、分け隔てがなく、善や悪などという二元論はそもそも存在しない。それはくだらない議論であり大きな誤りなのである。それを知ることが最も勝れた悟りの智慧であり、真理に赴く道なのである。それはこのようなものである。

そもそも欲望というものは無意味なものではないのだから、その欲望から生まれる怒りの心も決して無意味なものではない

怒りの心が無意味なものではないのだから、愚かな心も無意味なものではなく、だからすべてのものごとに無意味なものは存在しない

すべてのものごとに無意味なものはひとつもないのだから、悟りへ向かう真理が無意味なものである筈がない』

と説かれた。ここからは教主の名称がころころ変わってややこしいから世尊で統一します。では世尊は何を説かれたのか。悟りの世界は善悪などの判断基準を遥かに超越している。そしてすべてのものにはひとつとして意味がないものはない。だから欲望や怒りや愚かさという煩悩を代表する三大煩悩(三毒)にも意味がある。そのすべてのものにはひとつとして意味がないものはないということを悟ることこそ、最も勝れた悟りの智慧であり、真理へ赴く道なのだ、と説いている。煩悩への全面肯定である。煩悩は悪いものだから解脱、つまり汚い衣を脱ぎ捨てるように排除しなければならない(煩悩解脱)、という今までの仏教の通念を完全に引っくり返す、いわばこれは仏教のパラダイム・シフトである。密教ではこれを「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」と表現する。煩悩はすなわち悟りそのもの、ということ。煩悩があるからこそ悟ることが出来るのだ、むしろ煩悩を生かして悟りを実現しよう。それは初段で説かれた愛欲の積極的活用に通じる。そのためには、煩悩に縛られ、右往左往しているような精神状態ではダメ。どんな煩悩にも動じない静寂な不動の心を持たなければならない。阿閦如来がこの第三段の教主である意味はそこにある。であってこそ初めて煩悩に意味を見いだせるのである。いずれにしろ、自らの意識を常に高い次元に置いていなければ、それは到底なし得るものではない。煩悩だらけの世の中に浸り切って享楽を貪っているような我々には、煩悩を活用することなど出来る筈はない。だから世尊は煩悩を悟りとするためには、金剛薩埵つまり「あなた」に、この教説をよく聞いて心に刻みつけ、何度も読誦し、常に保ち続けなさい、と説かれるのである。

するとどうゆう効能があるのか。たとえ全宇宙の生きとし生けるものを皆殺しにしても、地獄などの悪しき世界に堕ちることはない・・。はい、凄いことになってきました。ある意味、初段よりもショッキングな話である。だから第三段は理趣経の中でも難関中の難関なのだ。では、全宇宙のあらゆる生きものを殺し尽くしても地獄に堕ちない、とはどういう意味なのだろう。我々の人間社会では、人を殺すことは当たり前に罪になる。まして仏教の教えでは「不殺生戒」といって、人間ばかりではなくすべての生きとし生けるものを殺めることを戒めている。命を大切にすること。それが人類の基本的な倫理観である。それを事もあろうに宗教書の中で「皆殺しにしても罪はない」などと書いてあること事態、言語道断、もはやこれは宗教書どころか魔導書ではないか、などとキリスト教の聖職者なんかが口から泡を拭いて激怒しそうな話であるが、しかし少し冷静になって考えてみよう。まずこの説法の場所はどこかといえば、欲界の最上天である他化自在天である。その欲望の魔王の宮殿の中で説かれている教えである。しかも説法者は全宇宙の総体である大日如来。聴衆は八十億の菩薩衆である。つまり我々低次元の人間界を遥かに超越した、煩悩すらも清らかである悟りの世界で、高次元の存在に向けての説法である。その点を思い出してみよう。だから我々が常識と思っていることは、いっさいがっさい何もかも通用しない。そもそも高次元の存在は、我々のような物質的な肉体を持ってはいない。もちろん次元の高さによって異なりはするが、いわばみな霊的な体の持ち主である。だから物質的な肉体を脱ぐ、つまり死という概念は存在しない。死に変わり生まれ変わりをすることを「輪廻転生」というが、それを超越した世界が悟りの世界である。死という概念がないのだから、殺すという概念もない。従って地獄という概念もない。六道輪廻の上にあるのが悟りの世界である。だから悟りの世界では誰も殺せないのである。ではなぜ「皆殺し」などという表現を使ったのか。あなたが大日如来の顕現である金剛薩埵であれば、誰を殺しても殺したことにならない。たとえ皆殺ししても皆殺しにしたことにならない。その行為は肉体を破壊するのではなく、心に巣食う悪しき差別意識を消滅させ、すべては平等であり清らかであるという高次の意識世界に至らしめることだからである。殺すとは確かに殺すことではあるが、それは一旦肉体を浄化し生まれ変わらせるために強引にそうすることであり、嫌でも相手を悟らせることである。それが出来るのは悟っているからである。悟っているからこそ悟りの世界に導ける。すべては空であるという般若波羅蜜多が説かれたこの経文を読誦し続ければ、それが可能になるのだ、と大日如来はここで説かれているのである。だからあなたが本当に金剛薩埵であれば、つまり悟っていることに気づきさえすれば、あらゆるものを強引に悟らせること(殺す)ことができ、その功徳によって無上の悟り(大日如来の至高の悟りのレヴェル)を得ることが出来るのである。解りましたか?。くれぐれも人間の尺度で見ないこと。それが密教経典であり理趣経であるということ。

この何ともインパクトのある有り難い教えを聞いた金剛薩埵は、その教えを明確に表現しようと、降三世の印を結び、たちどころに降三世明王に変身して、蓮華の花のように美しくも愛らしい微笑みを浮かべながら、眉を顰め怒りの眼差しで睨めつけ、牙を剥き出して仁王立ちになり、どんなことをしても誤った教えを正そうと、誰にも砕くことの出来ない怒りの心を「ウン」という種字に表して唱えた、という。これまたインパクトのある描写である。どのようにすれば愛らしい微笑みを浮かべながら、チョウ怖い怒りの顔ができるのか、まずそこから説明しよう。蓮華の微笑みは、慈悲心の現れ。慈悲の心ですべてのものを救い取ろうという優しい菩薩の微笑みであること。怒りの表情は、悪しき心を粉砕する強力なパワーを象徴していて、だから怖い。明王のお顔が怖いのはそのため。この優しさと怒りのふたつがミックスして初めてすべてのものを救済出来る。そのことを象徴しているのである。しかし、なぜ金剛薩埵は降三世明王に変身したのか。例えば不動明王でもよかったのではないか。その方がポピュラーだからイメージしやすいのに。では説明しよう。まず降三世明王の姿について。青い肌に四つの顔と八本の手を持っている。これを四面八臂(しめんはっぴ)というが、どの顔も当然怖い。手前の両手で降三世の印を結び、後の六本の手には剣や弓矢や矛や五鈷鈴なんかを持っていて勇ましい。足もとを見ると、何とふたりの人物を踏みつけている。これはヒンドゥー教の最高神シヴァとその妃パールヴァティーである。シヴァ神は妃のパールヴァティーとともに過去・現在・未来の三世に渡って全宇宙を支配する神と呼ばれ、また新しい時代を構築するために古い時代を破壊する破壊神とされている。漢訳仏典ではこのシヴァ神を大自在天(あらゆることが可能な偉大なる神)と表記しているが、とにかくインドでは現代においてもトリムルティー(破壊神シヴァ・創造神ブラフマー・繁栄神ヴィシュヌの三柱によって世界が構成されているというヒンドゥー教の宗教思想)の一柱として絶大な信仰を集めている神である。

で、この偉大な神を降三世明王が踏みつけている。どうゆうことか。当時のインドにおいては、ヒンドゥー教は密教のライバルであったからである。当時とは、紀元5世記前後である。それまで仏教を擁護していたマウリヤ朝やクシャーナ朝に代わって、紀元4世記に現れたグプタ朝は土着信仰を擁護するようになり、それがヒンドゥー教の興隆に結びついた。要因として、クシャーナ朝時代の紀元1〜3世記は、紀元前323年のアレクサンダー大王の東方遠征以降、東西交易が活発化し、その影響で商業活動が盛んな時代だった。仏教を含めた新思想は商業活動に従事する人々に擁護され、興隆した。ところがこのクシャーナ朝がササン朝ペルシアに滅ぼされると、インドはしばらく政治的に混迷の時代を迎える。他国との交易が閉ざされ、商業活動から従来型の農業へのシフトが起こる。そんな中で北インドを統一したグプタ朝は農業生産に力を入れると同時に、インドの土着信仰とバラモン教をベースにして興ったヒンドゥー教を国家の柱に掲げる。一方、国家の擁護を失った仏教は衰退の一途を辿ることになる。そんな仏教衰退期に現れたのが密教という新たな仏教改革運動である。この密教が時間を掛けて熟成されてゆく中、人気のあるヒンドゥーの神々を取り込み、信者数の獲得を図るという方法論が採用されてゆく。もともと仏教は土着信仰を取り込むことが得意な宗教ではあったが、密教時代は特にそれが苛烈化してゆく。そんな中のひとつが降三世明王によるシヴァ神とその妃神パールヴァティーの降伏である。前述のようにシヴァ神はヒンドゥー教の最高神にして三世に渡る世界の支配者である。この神を降伏、つまり強引に従わせ仏教を護る神にしたから降三世明王という。

ではこの降三世明王と金剛薩埵との関係性は、というと、まず降三世明王は阿閦如来の教令輪身(きょうりょうりんしん)であることから説明しなければならない。教令輪身とは、教えに従わぬものを強引に従わせるために身を転じること。阿閦如来が身を転じる、つまり変身したのが降三世明王ということ。なお、有名な五大明王は「五智」説(詳しくは「金剛頂経を読み解く」解説・中編を参照のこと)において、五智如来の教令輪身とされている。つまり大日如来の教令輪身が不動明王、東方の阿閦如来の教令輪身が降三世明王、南方の宝生如来の教令輪身が軍荼利(ぐんだり)明王、西方の観自在王如来の教令輪身が大威徳明王、北方の不空成就如来の教令輪身が金剛夜叉明王という具合である。

大日如来の教令輪身=不動明王

阿閦如来の教令輪身=降三世明王

宝生如来の教令輪身=軍荼利明王

観自在王如来の教令輪身=大威徳明王

不空成就如来の教令輪身=金剛夜叉明王

この五智如来と五大明王の関係は、不空訳「護国仁王般若経」に説かれているが、ただし降三世明王がシヴァ神とその妃神パールヴァティーを降伏したことについての伝承はかなり古く、密教説話の中では比較的ポピュラーなものだったのだろう。

さてこうして阿閦如来と降三世明王が結びついたのだが、では金剛薩埵との結び付きはどうかというと、別の密教説話には、シヴァ神とパールヴァティーを踏み倒して仏の教えに従わせたのは金剛薩埵である、というものがある。金剛薩埵が、かつて一度、世界を支配していたアスラ族の王シュンバと二シュンバの兄弟に変身し、そのアスラの姿でシヴァ夫妻を降伏した、ということである。インド神話は神であるデーヴァ族と悪魔族のアスラたちとの戦いの歴史である。悪魔といっても、征服者側のデーヴァ族に従わないインド古来の神々を悪者にしただけで、つまり征服民族のアーリア人と先住民の戦いの歴史を神々の戦いに仮託して神話化したものということ。このデーヴァ族の宿敵であるアスラの姿となってデーヴァの最高神であるシヴァ夫妻を降伏したのが金剛薩埵ということになっている。後期密教では、降三世明王はシュンバ・カーラと呼ばれて十忿怒尊の一柱であることから、金剛薩埵はつまり降三世明王の姿となってシヴァを降伏した、という論理が成り立つ。では、降三世明王は果たして阿閦如来なのか、それとも金剛薩埵なのか、という疑問が起こる。前述の「五智」説では、阿閦如来の正法輪身(しょうぼうりんしん)は金剛薩埵とされている。正法輪身とは、生きとし生けるものを悟りの世界へ救い上げるために菩薩の姿に変身することで、如来は本来はエネルギーであるから(自性輪身)、菩薩の姿に変わって直接行動を起こすということである。で、せっかく優しく教えを説いているのに従わないひねくれ者にはおっかない明王の姿で強引に正しい教えに従わせるのが教令輪身ということ。この自性輪身、正法輪身、教令輪身という三輪身において、自性輪身は阿閦如来、正法輪身は金剛薩埵、教令輪身は降三世明王という関係性になる。つまり、阿閦如来と金剛薩埵と降三世明王はまさに三位一体であることになる。

(自性輪身)阿閦如来


 (正法輪身)金剛薩埵

(教令輪身)降三世明王

要するにこの第三段の降伏の門において、阿閦如来と金剛薩埵と降三世明王が登場したのは、むしろ必然的なことだったと言える訳である。以上で難関の第三段の解説は終了します。お疲れさまでした。

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