「金剛頂経を読み解く」解説(中編)
[金剛頂経の内容の解説]
<序分の解説>
最初に伝えておきたい。密教はイメージの世界である。イメージが世界を造るのが密教である、と言い換えてもいい。そしてその世界は絶えず変幻自在に変化する。そこでは固定的な概念や我々が常識だと信じているものは通用しない。密教の悟りの世界とはそうゆうものである。まずこの前提を踏まえて金剛頂経を読み進めて頂きたい。さて、金剛頂経の冒頭は、他の経典と同じように、
如是我聞・・・このようにわたしは聞きました。
から始まる。「大日経を読み解く」でも述べたように、これは仏教の経典の定型句であるが、ではこの「わたし」とは誰であるか。密教経典においては、それは誰かではなく「わたし」である。「わたし」は誰でもなく「わたし」であり、そして誰でもある。はい、さっそく混乱して来ましたね。それで良いです。
この冒頭の定型句の後に、大日如来がどのように至高の存在となったかの説明がある。この時、世尊(大日如来)は、すべての如来たちから堅固不滅に光り輝くダイヤモンドのようなエネルギーを注入され・・とある。すべての如来たちとは誰か。誰でもない。あえて言えば、全宇宙のエネルギーである。だから誰でもある。「あなた」でもあり「わたし」でもある。草でもあり木でもあり、川でもあり山でもあり海でもある。その「あなた」でもあり「わたし」でもある大宇宙の全エネルギーが、大日如来に金剛という光のエネルギーを注入、つまり「加持」した、と書かれている。「加持」とは、エネルギーを注入する修法である。このことは『大日経を読み解く』に詳しいから、まずそちらを読んでください。次に、この加持によってこの上もなく勝れた悟りの境地をことごとく満たし、さらにすべての如来たちから「灌頂(かんじょう)」というイニシエーション(通過儀礼)を受けて宝冠を被せられることによって、欲界、色界、無色界というすべての世界の法王となり、あらゆる智慧を自分のものとした、という。
「灌頂」とは、もともとインドにおいて、全世界の海を制した、つまり世界を支配したことを象徴する四海の水を頭に灌ぐ、王位を継承するための戴冠式の儀礼である。これを密教が転用し、ある一定の修行を達成した弟子に、それを認めた師匠がさらにレヴェルの高い法を授ける認可儀式として、弟子の頭に智慧の水を灌ぐ、いわゆる通過儀礼(イニシエーション)となった。今でも密教には、その人のレヴェルに応じた様々な灌頂儀式の制度があるが、この辺の詳しいことは、また機会があったら説明したい。この場合は、すべての如来たちから灌頂されることによって、全宇宙の法王の位についたことを表明している。
それは誰か?。大日如来となる前の誰か、である。すべての如来たちから光のエネルギーを注入され、灌頂の儀式を受け、全宇宙の法王の位について大日如来となった、その大日如来となったのは誰か、ということ。金剛頂経には大日如来という表現は使われていない。毘盧舎那仏、あるいは毘盧舎那世尊となっている。毘盧舎那は、サンスクリット語ヴァイローチャナの音写で、「光り輝くもの」という意味を持つ。大日如来は太陽のように光り輝き、わたしたちに恵みを与えてくださる仏さま、ということで、ヴァイローチャナを意訳したものである。ただし、太陽のようにいつかは消えてなくなる物質ではなく、未来永劫に渡って輝き続ける不滅の光である。そのために「偉大な」という意味の「大」を頭につけて「大日如来」と名付けられた。如来はサンスクリット語タターガタの漢訳で「生きとし生けるものを救済するために来られた方」という意味であり、ブッダの敬称のひとつである。つまりブッダと同じ意味。であるのなら、すべての如来たちから光のエネルギーを注入されて全宇宙の法王の冠を被せられる灌頂の儀式を受ければ、誰でも大日如来になれる、ということになる。「あなた」も「わたし」も、である。この点は、さらに金剛頂経を読み進めれば、あ、なるほど、と解ってくるはずだから、お楽しみに。
こうして全宇宙の法王となられた大日如来は、すなわちどんなことでも可能になる。なにしろ全宇宙のあらゆる智慧を手にしているのだから、すべてを自由に操り、全宇宙のありとあらゆる世界に行き渡り、印契の力で持ってあらゆる生きとし生けるものが平等であることを知らしめ、あらゆる生きとし生けるものを救済し、安楽を与えてくださる。何とも有り難い光の仏さまである。印契は、あらゆるものを操り動かすエネルギーである。それは手の形によって発動される。行者はそのブッダのエネルギーとひとつになるために、ブッダと同じ手の形を結ぶ。このことはすでに三密の説明でしているので、ここでは省略する。この活動のエネルギーを持ってすれば、何でも出来る。世界のあらゆるものを救い、安楽を与えることなど容易い。こんな素晴らしい大日如来さまには、実は別の名前があった。「一切身語意金剛如来」という。「すべての身語意という三密のエネルギーを有する、永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような如来」である。別名というよりも敬称である。ただし、それは誰か、という疑問はまだ解決していない。
この偉大な毘盧舎那如来さまは、欲界の最上界である「色究竟天(しきくきょうてん)」という天界にある王さまの宮殿に滞在しておりました。そこはすべての如来たちが大好きで、いつも遊びに来るところで、とにかく美しく絢爛豪華に飾り立てられていて、まさにパラダイスといったところ。そこに毘盧舎那如来さまは、金剛手菩薩、観自在菩薩、虚空蔵菩薩、金剛拳菩薩、文殊師利菩薩、纔発心転法輪菩薩、虚空庫菩薩、摧大力魔菩薩(摧一切魔菩薩)の八大菩薩を中心とした九億九千万もの菩薩衆と、ガンジス河の砂の数ほどの数え切れない如来たちといっしょにおられました。
壮観な光景である。「色究竟天」は色界の最上天である。色界は、仏教の初期から説なえられている精神世界の構造で、欲界、色界、無色界という三つの心のレヴェルの第二段階である。欲界は文字通り欲望に塗れた心の世界。色界は物質世界にはいるが、その物質にこだわりを持たなくなった清らかな心の世界。無色界は、物質すらも消えた心の世界ということ。各世界はまた、様々な天界のレヴェルに細かく分割されているが、大日如来は、その物質へのこだわりが無くなった色界における最上界の世界に滞在していることになる。ではなぜ無色界ではなかったのか。いやむしろ仏界は無色界よりもさらに高い世界だから、ブッダなら当然、仏界に住んでいる筈である。ましてブッダの頂点に君臨する大日如来さまともあろう方が、数え切れない仏菩薩を引き連れて、その欲望からは離れているものの、まだ物だらけの低級な世界にいるのか。しかも如来たちは、その豪華絢爛な宮殿でいつも遊び呆けているという。そんな暇があったら、もっと衆生済度に精を出して欲しいものである。
と、こうしてやっかみの心を持つことが、そもそも欲界にベッタり染まった凡俗の証拠である。如来たちであろうと菩薩たちであろうと大日如来さまであろうと、楽しんで何が悪いのか。楽しくて楽しくて仕方がないことが永遠に続くのが悟りの世界である。少なくとも密教が説く悟りの世界は快楽の極みの世界である。仏さんたちにジェラシーを抱くのだったら、どうぞここまで登ってらっしゃい。と、そういう声がどこからともなく聞こえてくる。密教の悟りとは思いっ切り楽しむこと。それが密教であることを悟らせるために、大日如来はこの快楽の宮殿に滞在しているのだ、とそう考えれば納得出来るだろう。
さてこうして楽しい時間を過ごされた後、大日如来さまはすべての如来たちを引き連れて、大挙して贍部州(せんぶしゅう)という人間の住む世界に移動しました。そのために贍部州はたくさんの如来たちによって埋め尽くされ、まるで胡麻を敷き詰めたような状態になりました。如来たちはそれぞれにエネルギー領域を広げてお寺を建立し、人々のために悟りに至るための正しい道筋を説かれました、とさ。めでたしめでたし。
とこれで終わる筈はないのでご心配なく。そもそも大日如来は、気まぐれで人間の世界に来たのではない。ちゃんと目的を持って来られたのである。その目的とは何か。それが「正宗分」で語られるが、その前に「別序」をどうしても見ておく必要がある。
<別序の解説>
話を少し戻します。大日如来さまが色究竟天の王宮に居られた時のことです。大日如来さまの心の中、すなわち精神世界には金剛波羅蜜菩薩と宝波羅蜜菩薩と法波羅蜜菩薩と業波羅蜜菩薩の四波羅蜜菩薩さまがおられました。その方々は波羅蜜、つまり悟りに導くエネルギーに特化した女菩薩さまたちであります。金剛波羅蜜菩薩さまは、金剛界という光に満ち溢れた悟りの宇宙そのものを智慧とする女菩薩さまで、そのお智慧は、宇宙すべての生きとし生けるものを悟りに導くというたいへん有り難いものであります。宝波羅蜜菩薩さまは、大宇宙の尽きることのない無限の数の智慧を内蔵する女菩薩さまで、そのまるで宝のように光り輝くお智慧によって、生きとし生けるものに富をもたらして頂く方であります。法波羅蜜菩薩さまは、大宇宙に広がる仏さまの正しい教えで生きとし生けるものを導く女菩薩さまであり、すべては平等で清らかであることを知らしめる方であります。業波羅蜜菩薩さまは、大宇宙を包み込んですべての現象を創り出す女菩薩さまで、そのお力によって正しい教えに従わないものをこらしめ導く力を持たれた方であります。
以上が四波羅蜜菩薩の効能である。彼女たちはそれぞれ阿閦如来、宝生如来、観自在王如来、不空成就如来の配偶者(性的パートナー)であったが、大日如来へプレゼントされ、大日如来の四方を囲む悟り女(さとりめ)となる。従って、それぞれが四方の四仏のエネルギーの効能を持ち、大日如来のパートナーとして補佐する役割を担っている。このことはまた、マンダラの形成のところで詳しく述べることになる。この他にも、大日如来の心の中には十六大菩薩が内在していると説く。それも三種類に分けられている。すなわち法マンダラとしての十六大菩薩、大マンダラとしての十六大菩薩、三昧耶マンダラとしての十六大菩薩であり、それぞれの名称に若干の違いがある。それを下に記しておく。
『法マンダラ』
(金剛薩埵)
(鉤招菩薩)
(貪愛菩薩)
(善哉菩薩)
(大灌頂宝菩薩)
(日光輪菩薩)
(金剛摩尼宝頂菩薩)
(大笑菩薩)
(大清浄法菩薩)
(般若智菩薩)
(輪菩薩)
(密語菩薩)
(一切所作菩薩)
(大精進堅固鎧菩薩)
(防護金剛薬叉菩薩)
(金剛縛印契智菩薩)
『大マンダラ』
(普賢菩薩)
(妙不空菩薩)
(摩羅菩薩)
(極喜王菩薩)
(虚空蔵菩薩)
(大妙光菩薩)
(宝幢菩薩)
(大微笑菩薩)
(観大自在菩薩)
(文殊師利菩薩)
(一切曼荼羅菩薩)
(無言菩薩)
(一切業者菩薩)
(精進菩薩)
(暴悪菩薩)
(堅持菩薩)
『三昧耶マンダラ』
(金剛薩埵)
(金剛鉤菩薩)
(金剛箭菩薩)
(金剛喜菩薩)
(金剛宝菩薩)
(金剛日菩薩)
(金剛幢菩薩)
(金剛笑菩薩)
(金剛蓮華菩薩)
(金剛剣菩薩)
(金剛妙輪菩薩)
(金剛語菩薩)
(金剛業菩薩)
(金剛鎧菩薩)
(金剛怖菩薩)
(金剛持菩薩)
※表記の名称※
(金剛薩埵)
(金剛王菩薩)
(金剛愛菩薩)
(金剛喜菩薩)
(金剛宝菩薩)
(金剛光菩薩)
(金剛幢菩薩)
(金剛笑菩薩)
(金剛法菩薩)
(金剛利菩薩)
(金剛因菩薩)
(金剛語菩薩)
(金剛業菩薩)
(金剛護菩薩)
(金剛牙菩薩)
(金剛拳菩薩)
このように、各マンダラによって十六大菩薩の名称が変化している。また、前に載せた金剛界大マンダラの十六大菩薩の表記とも違うところがある。解り易くするため、それも一番下に書いておく。ただし、これは訳し方や訳者の表現の違いだけで、みな同じである。一番下の十六大菩薩の表記は、頭に金剛を付けて一文字で表した方が解りやすいからそうしているだけで、それを覚えておけば、上の対応表の菩薩名を覚える必要は全くない。それではなぜわざわざこの対応表を書いたかと言うと、とても参考になるところがあるからである。例えば、金剛薩埵が普賢菩薩と対応している。これは金剛頂経を読み解くにあたって、かなり重要なことになる。また金剛宝菩薩は虚空蔵菩薩と対応し、金剛法菩薩は観自在菩薩と対応し、金剛利菩薩は文殊師利菩薩となる。我々もよく知っている菩薩の名前があるが、これらは金剛名を被せられ、改めて密教の菩薩として登場したのであり、他の菩薩もすべてそうである。また、この対応表を見れば、それぞれの菩薩の個性や能力が、より理解しやすくなる。例えば金剛王菩薩の場合、鉤(かぎ)がポイントとなる。すべてのものを鉤に引っ掛け招き入れる鉤招の能力がこの菩薩の特性であることが解る。また金剛愛菩薩は、キューピットのような箭(や)で、すべてものを愛欲に導く能力を持つことが解るし、金剛法菩薩は観自在菩薩であり、正しい真理(法)を広め、すべてを清らかにする能力があることが解る。こうしてこの対応表を見ると、ある程度、その菩薩の能力を確認できて便利である。また、十六大菩薩のうち、金剛薩埵、金剛王菩薩、金剛愛菩薩、金剛喜菩薩の四菩薩は、東方・阿閦如来の四親近(しんごん)菩薩であり、阿閦如来の特性とその能力をそれぞれに持っている。阿閦如来のエネルギーを分割したもの、と捉えていい。同じように金剛宝菩薩、金剛光菩薩、金剛幢菩薩、金剛笑菩薩の四菩薩は、南方・宝生如来の四親近菩薩であり、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩は西方・観自在王菩薩(阿弥陀如来)の四親近菩薩。金剛業菩薩、金剛護菩薩、金剛牙菩薩、金剛拳菩薩の四菩薩は、北方・不空成就如来の四親近菩薩として、それぞれの如来のエネルギーを分割する形で有している。この件は、経典を読み進めるうちに解ってくるが、今のうちに理解しておくと良いかも知れない。
このように、大日如来の精神の中には、四波羅蜜菩薩と十六大菩薩が内在している訳だが、それらはすべて大日如来のエネルギーであることは間違いない。言ってしまえば、大宇宙のいっさいがっさいすべては大日如来のエネルギーだということ。だからこの後、実にいろいろなものに比定させて大日如来を誉めたたえる文章が続くが、つまりそれは、大日如来はどんなものでもあり、どんな力もあることを称賛しているのであり、すべての如来たちもすべての菩薩たちも、魔王も印契女(性的パートナー)も人も何もかも、それはみんな大日如来であることを指し示しているのである。つまりは「あなた」も「わたし」も大日如来だ、ということ。
で、次がとても重要なのだが、大日如来は、偉大な悟りに至る心(大菩提心)である普賢大菩薩のエネルギー体として、すべての如来たちの心の中心に住しているのだ、と説かれている箇所である。普賢菩薩は菩提心(悟れる心)のエネルギーそのものである。それが普賢菩薩の本質であり、密教にとっては最も重要な菩薩のひとりである。その普賢大菩薩が、大日如来として、すべての如来たちの心の中にいる。これはどう解釈すればいいのだろう。
マンダラ世界(悟りの宇宙世界)は、エネルギーの世界である。そこには時間も空間もない。そのエネルギーの総体が大日如来なのであって、そのエネルギーはすべてに渡って隅々まで満たされている。従って、その受用身(大日如来のエネルギーを受用して身体を形成していること)であるすべての如来たちは大日如来そのものであり、大日如来のエネルギーである菩提心そのものの普賢菩薩というエネルギーを、彼らがおのおの心の中に持っていることは何の不思議でもない。大日如来が滞在していた色究竟天の王宮も、従って大日如来の心の世界であり、マンダラ世界の一部。そのマンダラ世界は、すなわちすべての如来たちの心の世界である。そしてすべての如来たちと全く同じように、「あなた」も「わたし」も大日如来の受用身なのであり、そこには何の差異もない、一切平等の広大なエネルギー世界(マンダラ世界)を心の中に持っている。だからこそ、誰にでも菩提心があり、誰もが悟ることが出来るのである。
と、ここまでよろしいですか?。付いて来れてますか?。一回、頭の中を空っぽにして、常識の枠をとっぱらって、改めて心で思い描いてください。その心がマンダラ世界であることに気づけば、あなたはもう大日如来です。そうなれば、あなたが心でイメージする世界があなたの前に広がります。自由自在に世界を創ることが出来ます。イメージが何より重要です。そんなバカな、と頭で否定する前に、まず心でイメージしてみてください。そのイメージを引き出すためには、何よりも瞑想することが大切です。密教修行とは、つまり瞑想によってイメージする修行です。自分はすでに悟りの世界(マンダラ世界)にいる、とイメージする行が密教の修行なのです。そして、自分は大日如来であり、すべての如来たちであり、普賢菩薩である、とイメージして金剛頂経を読み進めてください。すると文字だけでは解らないところも、心の体験として解ってくる筈です。
と、教師のように語ってみたが、わたしも実際、瞑想で得たインスピレーションによって「大日経」や「金剛頂経」を読み解いている。学者の説とはだいぶ違う部分があるだろうが、そんなことは全く構わない。わたしはわたしの心でマンダラ世界を創造しているのだから・・。
話が脇道に逸れた。時を戻そう。「別序」に説かれていることは以上である。次に本編である「正宗分」に進む。
[正宗分]
<五相成身観>
さて、お話を戻しましょう。
「贍部州(せんぶしゅう)という人間の世界へ、大日如来さまに随行してやって来られたすべての如来たちは、そこで大集結してひとつの集合エネルギー体となり、悟りを開くために生死を彷徨うほどの苦行をしていた一切義成就菩薩に近づかれました。」
この一切義成就菩薩とは誰のことか、と言うと、歴史上では「ガウタマ・シッダールタ」の事である。つまりお釈迦さまが悟りを開く前の名前。釈迦族の王子として生まれたガウタマは、生きとし生けるものの苦しみに触れ、それを取り除き生けるものを救うにはどうすればよいかに悩み、ついにお城と妻子を捨てて出家し、求道の道に入る。二・三の師匠に師事するがそれでも求めていた悟りは得られず、今度はひとりセーナ村の修行森に入り、生死を分かつほどの難行苦行を敢行する。五人の修行仲間が出来るが、骨と皮状態になってもなかなか悟りは開けないでいた。そんなある時、スジャータという村娘から乳粥の施しを受けて心身を回復したガウタマは、菩提樹の下で静かに瞑想することによってついに悟りを開き、ブッダとなられました。というのが仏伝に記されたお釈迦さまの成道(悟りを開くこと)までのあらましである。
菩薩というのは、菩提薩埵(ぼだいさった)の略語で、それはサンスクリット語「ボーディ・サットヴァ」を音写したもの。「ボーディ」は菩提、つまり「悟り」であり、「サットヴァ」は生きとし生けるものを意味している。「人」と訳しても良い。だから「ボーディ・サットヴァ」は「悟る人」になるが、ここには二つの意味がある。「悟りを目指す人」と「悟れる人」である。「悟りを目指す人」の意味ととれば、悟る前の修行者のことになる。それがすなわち悟りを開き、お釈迦さまになる前のガウタマ・シッダールタのことを指していて、修行時代のお釈迦さまを、古来より「ボーディ・サットヴァ」つまり菩薩と呼び習わしてきた。ただ、大乗仏教の時代になると、悟りを開いてもあえてブッダにならず、生きとし生けるものの為に俗世に残り、その大慈悲によって悩み苦しむものを救ってくださる有り難い方を「悟れる人」として菩薩と呼ぶようになる。観音菩薩や地蔵菩薩や弥勒菩薩など、よく知られている菩薩はみなこの「悟れる人」のことである。地蔵菩薩は僧形で唯一例外だが、他の菩薩はみな華飾りの付いた宝冠を被り、イヤリングやネックレス、腕輪などを身につけて煌びやかにオシャレしている。これは王子時代のガウタマ、つまり悟る前のお釈迦さまをイメージした装いである。つまり王子という俗世の姿のまま、わたしたちを救済してくれる菩薩を象徴しているのである。
で、一切義成就菩薩(悟りに至るすべてのことわりを達成してブッダになるお膳立ての整った菩薩)の前に、すべての如来たちの集合エネルギー体は、大日如来の受用身、つまり大日如来のエネルギーを受けて身体を顕現しました。そして無動三昧という、身体の一切の活動を停止するという、どう考えても死んでしまうような荒業をしていた彼に、こうお告げになりました。
『「善き男子よ、汝がそのように難行に耐えたからといって、どうして無上の悟りを得ることが出来ようか。汝はすべての如来の真実を知ってはいないのだから」
その声にビックリして我に返った一切義成就菩薩は、立ち上がってすべて如来たちに恭しく礼拝し、こう問い掛けます。
「尊き如来様たちよ。教えてください。私はどのようにしたら、真理に到達することが出来るのでしょう」』
※一切義成就菩薩の、このすべての如来たちへの問い掛けから、真言密教の本源である即身成仏を達成する「五相成身観(ごそうじょうしんかん)」という瞑想法の開示が始まる。五相成身観とは、自らの身体が五つの段階を経てブッダの身体となってゆくプロセスをイメージすることで悟りを得ようとする瞑想法である。その瞑想法とはこのようなものである。※
『すると、すべての如来たちは口を揃えてこうお答えました。
「深く心の奧にある真の姿を捉えなさい、善き男子よ。自己の心の在り方を観察する瞑想によって。そしてその心の本性から、すでに真理に到達していることを表す真言(マントラ)を好きなだけ唱えることによって・・」
オン シッタ ハラチベイトウ キャロミ※オーム チッタ プラチヴェーダム カローミ※(オーム 我は自己の心の本来の姿を捉えん)
やがて一切義成就菩薩は、この瞑想によって、自己の心の本来の姿が浮かび上がります。そしてすべての如来たちに心の中で、こう申し上げます。
「私は皆さんに教えられた通りに致しました、尊き如来様たちよ。すると私の心の上に、満月の姿が見えてまいりました」』
※これが「五相成身観」の第一段階である「通達菩提心(つうだつぼだいしん)」である。菩提心が自己の心の在り方であり、それが満月の形をしているという境地に到達したことを言う。心の真の姿とは、満月のような形をしている。それが悟りに至る心の在り方であると説かれているのである。満月は、経典には「月輪(がちりん)」と表現されている。実際の月ではなく、月のような形をしたものを月輪と表現しているのである。それは月のように球体である。ここでは発光エネルギー球体と訳している。それが心の上に現れる。心の上とは、心の前方や上部の意味ではなく、心がその発光エネルギー球体にすっぽりと包まれている状態を表現している。ただし、この段階では、まだその球体は霧が掛かったようにぼやけている。※
『そこですべて如来たちは、心は本来清らかである、ということを気づかせるために、すでに真理に到達している真言(マントラ)を、一切義成就菩薩に授けます。
オン ボージシッタ ボダハダヤミ※オーム ボーディチッタム ウトパーダヤーミ※(オーム 我は菩提心を起こさん)
この真言によって菩提心を引き起こされた一切義成就菩薩は、その心境をすべての如来たちに告げます。
「私の心の上に現れた月の形をしたものが、もはや本物の満月に見えてまいりました」
そこですべての如来たちはこう申されました。
「汝の菩提心は、すべての如来たちの心の中そのものである。汝は今や、悟りの心(菩提心)を引き起こす普賢菩薩の心に至ったのであり、そのことによってすべての如来たちから敬われるべきものとなったのである」』
※これが「五相成身観」の第二段階「修菩提心(しゅぼだいしん)」である。修菩提心とは、心を包み込むように現れた球体(菩提心)を磨き上げる上記の真言によって、真にそれが自己の心そのものであると確信することである。この真言は、真言宗の在家勤行次第にもある「発菩提心真言(ほつぼだいしんしんごん)」である。ぼんやりと霞みがかっていた心の月がこの真言を唱えることによって次第に鮮明な満月のように見えてくる。霞は雑念やこの教えに対する疑念のこと。それらが真言の力によってきれいに拭き落とされると、そこには眩いばかりに透明な光を放つ球体が現れる。その清らかな光を輝かせる球体こそ、自己の菩提心であり、すべての如来たちの心そのものであり、そして悟りの心を引き起こす普賢菩薩の心であると説く。しかし、その球体の内部には、実はまだ光の正体が隠れている。※
『さらにすべての如来たちは一切義成就菩薩に告げます。
「その偉大なる悟りの心は、完成されなければならない。そこでまずすべての如来たちの普賢の心を堅固にするために、次の真言によって汝の満月の中に金剛(杵)を思い浮かべよ』
オン チシュタ バザラ※オーム ティシュタ ヴァジュラ※(立てよ、金剛(杵)よ)
この教えに従い行をした一切義成就菩薩は、すべての如来たちにこう申し上げます。「尊き如来様たちよ。私は満月の中に金剛(杵)を観ます」』
※これが「五相成身観」の第三段階「修金剛心(しゅこんごうしん)」である。心を包む球体の中に、真の心の姿である金剛(杵)を確認することである。金剛とは、前述のように永遠不滅に光り輝く悟りの心のエネルギーのことである。それが球体の光の正体である。ただし、エネルギーには形はない。だから金剛杵という形として仮に姿を顕わす。金剛杵(こんごうしょ)は代表的な密教法具である。もともとはインドの雷神であるインドラ神の武器であったが、密教が菩提心の象徴として、また悪しき心のものをこらしめ救済する(調伏)ための霊的な武器として転用した。形は幾つか違いはあるが、金剛はそもそもダイヤモンドをイメージしている。だから真の心の姿はダイヤモンドで出来た金剛杵でなければならない。無色透明で圧倒的に純粋な光を放つ、あまりにも美しいダイヤモンドの金剛杵。想像するだけで引き込まれそうな魅力がある。これが心の本当の姿であり、普賢菩薩であり、悟りの心、すなわち菩薩心なのである。この心の本当の姿である光り輝く金剛杵は、自己のエネルギーであると同時に、すべての如来たちの心、つまり大宇宙の全エネルギーでもある。それをさらに確信する必要がある。※
『次いですべての如来たちはこうお仰せになりました。
「汝はこの真言(マントラ)を唱えることによって、すべての如来たちの普賢の心であるその金剛(杵)を堅固にせよ」
オン バザラ タクマカン※オーム ヴァジュラアートマコー アハム※(オーム 我の本質はこの金剛(杵)に他ならず)
一切義成就菩薩はすべての如来たちから教えられたこの真言(マントラ)を一心に唱えました。
すると、全宇宙の心と言葉と体の活動が永遠不滅に輝き渡る世界(心語意金剛界)が、すべての如来たちのエネルギーを注入されて、一切義成就菩薩の心の本質である金剛(杵)の中に入りました。
そしてすべての如来たちは一切義成就菩薩に、
「(汝は)金剛界なり、(汝は)金剛界なり」
と、永遠不滅に光り輝く悟りの世界であるその名を授けました(金剛名灌頂)。かくて金剛界菩薩という灌頂名を授けられた一切義成就菩薩は、すべての如来たちにこう申し上げました。
「すべての如来様たちよ。私は今、私自身の体が、すべての如来が集合したエネルギー体となったように感じます」』
※これが「五相成身観」の第四段階の「証金剛身(しょうこんごうじん)」である。我が身が、心の本来の姿である永遠不滅の光のエネルギー(金剛)そのものであると気づく段階である。心のエネルギーがそのまま身体であると悟ること。なぜなら心は全宇宙のエネルギーであるから。身体も心のエネルギーが作り出したものである。この境地に至ると、全宇宙のエネルギーであるすべての如来たちがエネルギーを注ぎ込んだ光の世界、つまり金剛界が心の光のエネルギー(金剛)に同化する。と心は光の世界そのものとなり、身体は眩く輝き始める。そしてすべての如来たちは、この境地に至って生まれ変わった一切義成就菩薩に、新たに金剛界という灌頂名を授ける。金剛界菩薩の誕生である。※
『すると、すべての如来たちは、こう申されました。
「金剛界大菩薩よ。その瞑想をさらに進め、自らをブッダたらしめる次のような真言(マントラ)を好きな数だけ唱え、それによってすべてにおいて最も勝れた姿形を整え、ブッダの姿そのものである心中の金剛(杵)が、汝自身であると思え」
オン サラバタタギャタ サタタ カン※オーム ヤター サルバタターガタース タター アハム※(オーム 一切如来があるが如く、その如くに我はある)
このように教えを受けた金剛界大菩薩は、この真言(マントラ)がすべての如来たちの真実であり、今すぐにも悟りを開くことのできる(即身成仏)秘儀であることに気づき、この仏身円満の真言(マントラ)をひたすらお唱えになりました。
するとその場で、自分がもはや如来と同等である(現等覚)と悟り、金剛界如来となった彼はすべての如来たちに恭しく礼拝し、次のような言葉を述べました。
「私にすべての如来のエネルギーを注入(加持)してください、尊き如来様たちよ。そしてこの私の悟りを堅固なものにしてください」
するとすべての如来たちは、悟りを開いて金剛界如来となった彼の身体そのものである金剛杵(光り輝くエネルギー体)の中に入ったのでした。そのことによって、いとも尊き金剛界如来は、すべての如来たちとまったく等しい智慧による悟りを得て(現等覚)、すべての如来たちとまったく等しい堅固不滅の智慧を持ったことによって印契の秘密の力を得て悟りの世界に入り、すべての如来たちとまったく等しい真理を知る智慧によって、すべてのものをその本質において平等に清らかにし、すべての如来たちとまったく等しいという智慧によって、すべてのものがその本質において清らかであるという智慧の源泉となり、かくて如来であり阿羅漢(悟りの最上級者)であり正等覚者(如来の一員)となられたのでした』
この「五相成身観」の最終段階を「仏身円満」という。完璧にブッダの身体を持ったことを意味する。つまり成仏したこと。金剛界菩薩は、すべての如来たちから授けられたこの「仏身円満」の真言を唱え続けることによって、ついに身も心もブッダとなった。そして金剛界如来という新たなブッダとして生まれ変わることになる。さらにすべての如来たちが彼の体に入ることによって、たちどころにすべての如来たちと同格になり、すべての如来たちのあらゆる智慧を獲得する。つまり「即身成仏」を成し遂げたのである。「即身成仏」は弘法大師空海が発案した言葉とされているが、その前に仏典にも表れている。が、空海がこの言葉ひとつで密教の奥義を表現し、密教を日本において根付かせていったのは紛れもない事実である。それほど「即身成仏」は密教にとって重要な教理であるということ。
苦行を続けていた一切義成就菩薩は、大日如来のエネルギー体であるすべての如来たちから啓示を受けて「五相成身観」を行じることによって、たちどころに金剛界如来というブッダとなった。本来なら何劫(『大日経を読み解く』を参照)という気の遠くなる時間を費やして、生まれ変わり死に変わりしながら仏道修行をし続け、ようやくブッダとなることが出来る筈なのに、金剛頂経には「五相成身観」を行ずれば、たちどころにブッダになれる、と説く。空海はこの金剛頂経の教えを「即身成仏」という言葉ひとつで表現したのである。ただし、誰でもこれらの真言を唱えて瞑想すればすぐにもブッダに成れる、と思ったら大きな間違いであることは、賢明な読者なら解る筈だろう。本当に真から悟りたいという、つまり完璧な菩提心がなければ到底無理であり、その上で一切義成就菩薩のようにすべての如来から認められるような善行を行い、修行に邁進していなければならない。見よう見まねでおもしろ半分の気持ちでやっても、何も起こらないか、悪くすると身の破滅になる。そのくらい密教はある面、恐ろしい。だから一定の精神レヴェルに達した人以外には、安易に教えられないというのが密教の鉄則である。だから秘密の教えという。この件はさらに本経を読み進めれば理解されると思うが、ただ、そうかと言って何も教えず秘密にしていたら、結局、誰にも知られずに終わってしまう。本作の目的は、密教はこうゆうものだと認識してもらい、少しでも多くの人に心の素晴らしさと、宇宙の無限の愛を感じて欲しいということに尽きる。
で、「五相成身観」は一応、プロの密教修行者(真言宗や天台宗の坊さんがみんなプロの密教修行者ではないことは先刻ご承知だろうが)の専門分野であるとして、ビギナー向けには「ア字観」という瞑想法が真言宗にはある。これは月の中に大日如来の種字(前述)の「ア」が描かれている絵を見つめながら瞑想し、大日如来と一体になることをイメージする瞑想であるが、これもアドバイザーにレクチャーを受けなければなかなか難しい。下に「ア字観」に使用する絵の写真を参考までに載せておく。
少しだけコツをレクチャーすると、これを絵だと思うから難しい。立体的に捉えて、丸い光の珠であるとイメージすること。つまり発光エネルギー球体ということ。その球体は清らかで眩い透明な光を発している。それがあなたの心の姿である。あまりにも美しいので、思わず引き込まれてそうになる。その発光エネルギー球体の中に、大日如来の種字である「ア」の字が現れる。ああ、わたしの心の中には宇宙の仏さまである大日如来さまがいらっしゃる。そうイメージしながら、その文字が次第に大日如来の姿に変わってゆく。あくまでも立体的に捉えること。そしてしばらくするとそのあなたの心である光の珠が、次第に膨張し始め、やがてあなたを包み込む。あなたはいつの間にか大日如来と一体になっている。光の珠はどんどん膨張を始め、やがて宇宙大に広がる。あなたの心はもはや広大な宇宙そのものである。するとやがて光の珠は収縮を始め、あなたの中に収まる。そしてまた膨張する。そしてまた収縮する・・。その繰り返しをイメージしながら瞑想してみよう。すぐにそうイメージ出来れば大したもの。何でもそうだが、一度やって出来ないからもうやらない、では何も達成出来ない。何度も繰り返し瞑想してみることで、少しずつコツを掴み、やがてモノになる。よかったら試してみてください。
この「ア字観」瞑想は、「五相成身観」と原理的には同じである。つまり直接ブッダになるとイメージすることで悟りを開く瞑想法である。ポイントは、自分の心が発光エネルギー球体、つまり光の珠であるとイメージできるか、である。宇宙の全エネルギーはその珠の中に集約されている。その珠を解放することで、全宇宙、つまり大日如来と自分は一体である、と気づくことが出来るかどうかである。「五相成身観」の場合は、五つのステップを踏みながら、その段階に応じた特定の真言を唱えることを要求される。確実に一歩一歩、段階を踏んで行くことで、ブッダの悟りを確実なものにしてゆく。ダイレクトに大日如来と一体になろうとする「ア字観」の方が、むしろ時間が掛かる。だからビギナー向けなのである。
と、ここら辺でいい加減話を戻さなければならない。一切義成就菩薩は、すべての如来たちの集合エネルギー体から「五相成身観」の瞑想修行法を賜り、晴れて念願の金剛界如来というブッダになることが出来た。しかし実はそれで終わりではない。ここからが金剛頂経の醍醐味である。すべての如来たちは、如来の一員となった金剛界如来の身体そのものである金剛(杵)から出て、どんな願い事でも叶える宝の蔵である虚空蔵菩薩のエネルギーを彼の頭上に注いで(灌頂)法王の位を授け、次いで観自在菩薩の智慧である無上の真理を引き起こさせ、すべての如来たちの頂点に立つ宇宙の創造者(一切業者)たる資格を持つ者とした。そしてすべての如来たちは、金剛界如来を宇宙の中心に聳え立つ須弥山(しゅみせん)の、その頂点ある金剛摩尼宝頂楼閣(こんごうまにほうちょうろうかく)に連れて行き、彼に改めてエネルギーを注入(加持)した上、その獅子座にすべての方向を向くように座らせた。かくて彼は釈迦牟尼如来、すなわち毘盧遮那如来となった、とある。
須弥山(しゅみせん)とは、古代インドの宇宙観における世界の中心にある聖山である。この須弥山を中心に、七つの金の山と鉄囲山(てっちせん)が周りを取り巻いており、その間に八つの海があるという。その外側に、東西南北に四つの大陸があり、南にあるのが贍部州(せんぶしゅう)という人間が住む大陸である、とされている。その宇宙の中心にある須弥山の、さらに頂上にある金剛摩尼宝頂楼閣(永遠不滅に輝き続ける、何でも願い事が叶うお宝で出来たお城の天っ辺)へ、すべての如来たちに連れて行かれた金剛界如来は、そこで改めてエネルギーを注入され、法王の位に就いたことを意味する獅子座に、すべての方向を向いて座らされた。
要するに金剛界如来は、獅子座に座ることによって全宇宙の法王、すなわち大日如来となったのだが、しかしすべての方向を向いて座るとは、どうゆう状態で座れば良いのだろう。そこは最高次元のエネルギー世界である。我々のような物資界にいるものには到底想像も出来ない世界であるから、何でもありである。まずそれを前提にしないと金剛頂経は読み解けない。エネルギーであるから、同時にどの方向も見渡せるのは当たり前。全宇宙の法王とはそんな存在なのだろう。
だがそうなると、金剛界マンダラや胎蔵生マンダラに描かれている大日如来のイメージとはだいぶ違ってくる。マンダラに描かれている大日如来は正面を向いて座っている。絵は二次元だからそう描くしかなかったのだろうが、たとえ三次元、つまり彫刻のように立体的にしてみても、全方向に向いている彫刻など作りようがない。だからこうした高次元のエネルギー宇宙を表現するために、三昧耶マンダラのように持物や印契で表したり、法マンダラのように種字(しゅじ)で表す表現方法が発達したのだろう。これはあくまでも私の推論である。よく密教仏には多数の顔や手や足を持つ仏像や仏画があるが、これらはあくまでもその尊格の力や特性を象徴しているのであって、その描かれた姿は製作者のイメージである。だからそれに囚われる必要はない。大マンダラや三昧耶マンダラや法マンダラや羯磨マンダラという四種マンダラも、それらはすべてその尊格を象徴として描かれている。だから瞑想におけるイメージの手助けになるという意味では重要だが、あまり固定観念を持たずに自分の自由なイメージを持っても構わない。大切なのは、仏界やマンダラ世界はエネルギーの世界であるという認識を持つこと。それが密教経典を読み解く鍵になる。
さて、ここで金剛頂経最大のクェッションのお時間です。一切義成就菩薩はすべての如来たちのアドバイスで、晴れて念願のブッダになることが出来たが、それだけではなく、あれよあれよという間に宇宙の中心である須弥山の頂上まで連れて行かれて、そこで改めて如来たちのエネルギーを注入され、いつの間にか大宇宙の法王である大日如来となった。経典では毘盧遮那如来と表記されているが、またの名は釈迦牟尼如来であるという。お釈迦さまイコール大日如来である、と金剛頂経には書かれているのである。さて、これはどういう意味でしょうか。
お釈迦さまは歴史上の人物で、仏教の開祖である。かたや大日如来は密教の根本仏で、大宇宙そのものを総体とするブッダである。そのふたりが同一のブッダであるというのはどう理解したらいいのか。もしお釈迦さまが現世で法を説かれ、その後、肉体を離れて大日如来になったというのなら、そのあらましが金剛頂経に記載されても良い筈だが、それもなくいきなり金剛界如来となって宇宙の中心に連れて行かれて大日如来となった。となると、金剛頂経は歴史上のお釈迦さまを否定していることになる。また、もしお釈迦さまが大宇宙の総体である大日如来と同じであるなら、お釈迦さまが大日如来となる前には宇宙は存在しないことになる。だが金剛頂経の「序」には、しっかりその前に大日如来が存在していて、彼が色究竟天から人間の世界である贍部州に移動したことが書かれている。そもそもお釈迦さまを大日如来にしたのは、かく言う大日如来である。じゃあ、お釈迦さまが大日如来となる前の大日如来はいったい誰なのか。
答えを言いましょう。ズバリ、答えは、誰もが大日如来である、ということ。「あなた」も「わたし」もみんなみんな大日如来。だからお釈迦さまが大日如来であることも何の不思議でもないし、お釈迦さまが大日如来になる前に大日如来がいても何の不思議でもない。つまり、お釈迦さまだけが特別な存在ではなく、「あなた」も「わたし」もみんなブッダであり大日如来であるから、過去も現在も未来もなく、大日如来は永遠に「わたし」として存在し続けるということ。はあ?・・となるかもしれないが、それが密教である。
大日如来は意思を持つ純粋なエネルギーである。ここに登場するすべての如来たちも大日如来のエネルギーであり、お釈迦さまももちろんそうである。この場面でお釈迦さまが登場したのは、すべての如来たちからブッダとなる修法を授けられることによって、誰でも大日如来になれる、正確に言えば大日如来という宇宙のエネルギーと一体であると気づくことが出来ることを明示している。それに気づくことを「即身成仏」という。まだピンと来ないかも知れないが、「すべては大日如来のエネルギー」というテーゼをしっかり心に落とし込んでいれば、いつかは「あなた」も即身成仏する事ができるだろう、と金剛頂経は我々に伝えているのである。
<四方四仏の発生の解説>
さて、阿閦如来(あしゅくにょらい)と宝生如来(ほうしょうにょらい)と観自在王如来(かんじざいおうにょらい)と不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)の四仏は、宇宙の法王の位に就いて獅子座に座した大日如来が、すべての方向に意識を向けて、すべては平等であるという境地に至っていることを知ると、すべての如来たちと同等であるという資格を得るために自らにそのすべての如来たちのエネルギーを注入して、すべての如来たちの集合エネルギー体として、それぞれが大日如来の四方、すなわち阿閦如来は東方に、宝生如来は南方に、観自在王如来は西方に、不空成就如来は北方に座した、という。
ここで注意が必要なのは、四方四仏はそれぞれが自分の意思で、すべての如来たちの集合エネルギー体となって大日如来の四方に座したのであって、大日如来が生み出したのではないということ。だから四仏は大日如来の属性ではない。むしろ大日如来を補佐する立場であり、独立した存在と言っていい。しかし、全く別個に活動している訳では決してない。それぞれの如来が意思を持ちながら相互に関連し合い、中心にいる大日如来を支えている。後に触れるが、これを「相互供養」という。
また、金剛頂経を読み解いて解ることだが、四仏は中心の大日如来の方向に顔を向けて座っている、ということである。大マンダラではすべての仏菩薩がこちらに向いて座っているのは絵だから仕方ないとして、有名寺院にある立体マンダラも大日如来を背にしてこちら向きに座っている。これも仏さんが信者に背を向けていたら有り難みがないので仕方ないこと。だが、金剛頂経では、少なくとも四仏はすべて中心の大日如来の方を向いている、と説かれている。中尊に背を向ける筈はないので、これも当たり前である。しかも、すべての仏菩薩は、月輪(がちりん)という発光エネルギー球体の中に浮いている。このことも経典を読み進めれば解ることだが、いずれにしろ我々のような三次元世界の凡俗には捉え難いのが悟りの宇宙世界である。
この悟りの宇宙世界の大元になる四方四仏と、中心にいる大日如来を合わせて「五智如来」という。さっそくこの「五智如来」について見ていきたいが、その前に「智慧」とはいったい何か、をまず解き明かしておかなければならないだろう。普通、智慧というと、知識や経験がある状況において生かされることを言う。人はある出来事に遭遇した時、より良い解決法が経験や知識を通してふっと頭に浮かんだりする。それをアイディアという言い方をしたりもする。そのアイディアを使って行動を起こし、事態を解決する。まず智慧が先にあり、次にその智慧を生かした行動を起こすということ。他方、大乗仏教では智慧のことを「般若(はんにゃ)」という表現を使う場合があるが、これは「悟りに至る智慧」を言い「直観智」を意味する。「直観智」とは、知識や経験によらず修行によって現れるもので、ふっと頭に浮かんだひらめき、いわゆるインスピレーション(直感あるいは霊感)を左脳でもって論理的に判断する智慧である。しかし密教における智慧は、また違う意味を持つ。前に挙げた二つの智慧は、ひらめきをその源にして起こるものだが、密教の智慧はそうではなく恒常の智慧を言う。つまり常に備わり続ける如来の智慧を指している。それは直観智のように受動的なものではなく、常に全宇宙に働きかける能動的な智慧のことであり、智慧はすなわちエネルギーであると言える。作用や能力という言い方をしても良い。「般若」は「悟りに至る智慧」であり、修行者が受け取る受動的な智慧であるのに対し、如来の智慧はすべてのものに働き掛ける能動的な智慧と理解すればいいだろう。このことを踏まえた上で、「五智」を見てみよう。
まず、東方・阿閦如来の智慧を「大円鏡智(だいえんきょうち)」という。「大きな鏡で世界のあらゆるものを写し出す智慧」ということ。すべての真実を隠しようもなく写し出す能力をいう。
南方・宝生如来の智慧は「平等性智(びょうどうしょうち)」という。「あらゆるものの本性がすべて平等であると見極める智慧」ということ。またすべてのものに平等に恵みを与える働きでもある。
西方・観自在王如来は阿弥陀如来のこと。その智慧は「妙観察智(みょうかんざっち)である。「あらゆるもののそれぞれの個性をつぶさに観察する智慧」である。その智慧によってすべてのものが平等に清らかであることを知らしめる。
北方・不空成就如来の智慧は「成所作智(じょうそさち)」である。「あらゆるものに常に作用し続ける智慧」である。この働きは、具体的な動きを意味し、悪しきものを調伏(こらしめ悟りに導くこと)する作用でもある。
そして中心の大日如来の智慧は「法界体性智(ほうかいたいしょうち)」である。宇宙そのものをその身体とする智慧。あらゆる智慧の総体であり、四仏の四つの智慧を統合した智慧である。以下に表記しておく。
大日如来[法界体性智]。
阿閦如来[大円鏡智]。
宝生如来[平等性智]。
観自在王如来[妙観察智]。
不空成就如来[成所作智]。
だだし、「五智」はそれぞれに分割されているのではなく、五仏の間で相互に融合し合い、ひとつの智慧として宇宙を満たしている。つまり宇宙にあるものひとつとして差異はなく平等に仏の智慧で満たされているということ。ここが密教の核心である。またさらに金剛頂経系の教えでは、この「五智」を五つの部門に分けている。
大日如来・・・仏(如来)部。
阿閦如来・・・金剛部。
宝生如来・・・宝部。
観自在王如来・・・蓮華(法)部。
不空成就如来・・・羯磨部。
この五部門に合わせて、あらゆる密教のエッセンスを五つに分類するという考え方が発達した。以下にその一部を表にしておく。
<五智表>
五部(仏部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部)。
五仏(大日・阿閦・宝生・観自在王・不空成就)。
五方位(中央・東方・南方・西方・北方)。
五大(水大・火大・地大・空大・風大)。
九識(アマラ識・アラヤ識・マナ識・意識・前五識)。
五色(白色・赤色・黄色・青色・黒色)。
正法輪身(般若菩薩・金剛薩埵・金剛蔵王・観音菩薩・金剛牙菩薩)。
教令輪身(不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)。
五相成身(仏身円満・通達菩提心・修菩薩心・成金剛心・証金剛身)。
ひとつひとつを解説すると、とんでもないページ数になるので、ここでは割愛する。意味を知りたければ各人、自分で調べることをお勧めする。ただ、ずっと目で追って行くと、幾つか面白いことが発見出来る。いつか、ああ、なるほど、と思える時がくるので参考にして欲しい。
<十六大菩薩生の解説>
[金剛薩埵の顕現の解説]
かくて今、すべての如来たちの菩薩心の真髄である普賢菩薩を金剛杵という形で心の中に持ち、すべての如来たちの宇宙に遍満するすべての願いを叶える宝冠を灌頂によってその頭に被り、すべての如来たちの真理の真髄である観自在菩薩の最も勝れた法の智慧を獲得し、すべての如来たちそのものの宇宙の創造者の地位を得た毘盧遮那如来は、その教えが嘘偽りなく完璧であって疎外されることなく、為すべきことは完全に成し遂げて、心に願うことは完全に達成し、つまりいっさいがっさい可能になりました、と経典は説いている。
これは上記の「金剛部」「宝部」「蓮華(法)部」「羯磨部」をそれぞれ表していることに気づくだろう。「金剛部」は菩提心のエネルギーである普賢菩薩を表現した金剛杵。「宝部」は灌頂によって何でも願いが叶う宝冠。「蓮華(法)部」は宇宙の真理のエネルギーである観自在菩薩の法の智慧。「羯磨部」は宇宙の創造者、つまり能動性のエネルギー。これらの四つの要素をすべて自分のものにしたのが「如来(仏)部」である大日如来ということになる。この「五智」は、実は金剛頂経の最初の「序」の部分から概念化されており、だからこの「五智」を念頭に置いておかないと、これから解説する「十六大菩薩」以降の金剛界大マンダラにおける諸菩薩の発生システムは理解出来なくなる。ただ、これを頭にさえ入れておきさえすれば、すべてスムーズに理解出来る。その点を充分に意識しながら先に進もう。
さて、大日如来は心中にある菩提心のエネルギーである普賢菩薩の金剛杵と融合する薩埵加持金剛という瞑想に入って、全宇宙そのものであると同時にすべての如来たちの心中にある絶対的存在者・金剛薩埵を「金剛薩埵よ」と心呪(フリダヤ)することで顕現する。これはどうゆうことだろうか。序説の解説でも述べたように、金剛とは『永遠不滅に輝き続ける悟りの心のエネルギー』である。それは全宇宙のエネルギーである。大日如来の悟りのエネルギーであると同時にすべてのものに行き渡る悟りのエネルギーでもある。これを別な言い方をすると、菩提心という。すべてのものには悟れる心のエネルギー・菩提心があるということ。この菩薩心のエネルギーを普賢菩薩という。普賢菩薩は金剛杵という形ですべてのものの心の中にある。実際はエネルギーだから形はないが、[仮に]金剛杵という形でイメージとして捉える。密教はイメージの世界だから、そう捉える訳である。このことは「五相成身観」の解説のところでも説明しているから見直して欲しい。この菩提心であり金剛杵である普賢菩薩と融合することにより、大日如来は自らの心の中から金剛薩埵を心呪によって顕現させた。顕現とは姿を顕わすことだが、まだこの段階では心呪、つまり心のエネルギーが言葉の呪力によって引き出された状態であり、形そのものはない。声だけの存在と言い換えてもいい。
日本にも太古より「言霊(ことだま)」の信仰がある。言葉には呪力がある、という信仰形態である。言葉を発することにより、その言葉通りに現象化する。信じるか信じないかはあなた次第だが、マントラ(真言)はまさにこの言葉の呪力のことを言う。インドにおいても、そして日本でも、言葉に霊的な力があるという概念は共通しているが、それは日本やインドに限らず、おそらく太古の世界の共通認識だったに違いない。それを現代人はすっかり忘れてしまっているということ。いかに現代人が退化した存在であるか、少しは頭を使って考えてみる必要はあるだろう。と、また話が横道に逸れてしまったので元に戻します。
こうして金剛薩埵は言葉のエネルギーとして大日如来の心から表に出た。では、この金剛薩埵とは何ものなのか。それは菩提心であり金剛杵である普賢菩薩のエネルギーが姿を変えたもの、つまり金剛薩埵は普賢菩薩のことだ、と金剛頂経は言う。前述のように全宇宙は悟りの世界のことであり、それはすべてのものの心の世界だから、つまり悟りの心の世界は全宇宙そのものということになる。それが金剛薩埵ということ。だから金剛薩埵は全宇宙の絶対的存在者なのである。
じゃあ、大日如来と違わないじゃない、という声が聞こえて来るが、実はこれは自分の心の声であって、以前はどうしても大日如来と金剛薩埵の違いが解らずに悩んでいた時期があった。ある時、チベット密教では大日如来の姿は描かない、という文章を何かで読んで、この疑問が氷解した。そうか、大日如来は宇宙のエネルギーそのものだから描けないし、描いてはいけないとしているのだ。さすが日本の密教よりさらに高度に進化したチベットの密教、と思わず賛嘆してしまった。つまり、最高次元のエネルギーである大日如来は宇宙すべてに遍満しているのだから、誰もその姿を捉えることは出来ない。だからその働きを[仮に]具現化する形で金剛薩埵があるのだ。大日如来が具現化したのが金剛薩埵ということになる。だから金剛薩埵は宇宙そのものであり、大日如来の顕現なのである。いや、金剛薩埵に限らず、すべての如来や菩薩も大日如来の働き(智慧)のひとつを担って[仮に]姿を現した存在で、だからすべては大日如来のエネルギーであるということ。解りますか?。頭がこんがらがってませんか?。とにかく再三言うように、今までの知識や常識をすべてどっかに捨てていないと、金剛頂経は読み解けないです。
こうして言葉の呪力により大日如来の外側に出た金剛薩埵のエネルギーを目にしたのは、すべての如来たちの心の中にある大菩提心・普賢菩薩だった。普賢菩薩は月輪(光の珠=発光エネルギー球体)となってすべての如来たちから出ました。そしてすべての生きとし生けるものの菩提心を清められた後、すべての如来たちの傍らに付きました。すると、それらの月輪(発光エネルギー球体)から今度は金剛杵が現れ出て、一斉に大日如来の心の中に入り、ひとつに纏まって巨大な金剛杵になりました、という。
この金剛杵は具体的には「五智」を象徴する、両側の先端に五つの尖りを持つ、いわゆる五鈷杵なのであるが、何しろダイヤモンドで出来ているのだから、その透明で純粋な光の美しさはハンパない。その五鈷杵は大日如来の手の上に納まると、瞬く間に全宇宙を飲み込むほどの大きさになりました。そして五鈷杵の形の光線を放ち、様々な色や形の光を煌めかせ全宇宙を満たしました。するとその金剛光線の先端から、新たに素粒子の数ほどの無数の如来たちが出て、宇宙中に遍満した後、改めて大日如来の心の中に入り、普賢菩薩となったのでした、という。何とも複雑な行程である。そしてその普賢菩薩は自らを賛美した後、大日如来の心の中から出て、東方・阿閦如来の前方の発光エネルギー球体の中に座りました。それを認めたすべての如来たちは、彼に金剛手菩薩という灌頂名を授けました。金剛手菩薩は金剛薩埵の異名である。そして金剛薩埵が大日如来に教えを求めると、大日如来は手にしていた、あらゆるものを悟りに導く五鈷杵を彼に手渡しました。晴れて五鈷杵という素晴らしい持物を賜った金剛薩埵は、その五鈷杵はまさに自分自身だと感激の言葉を唱えたのでしたとさ。めでたし、めでたし・・。これが金剛薩埵の顕現ストーリーである。
しかし、何でこんなに複雑な経過を辿らなきゃならないのか。大日如来さまなら、心で念じただけで何でも出来るはずなのに、出したと思ったらまた入れたり出したり、なんかごちゃごちゃして解り辛い。そう思われる人も多いと思うが、実は私もそう思う。ただ、こう考えてみたらどうだろう。
大日如来は、すべての如来たちの集合エネルギーである。単独で存在しているものでは決してない。すべてのものは互いに融合し合い、作用しあってこの大宇宙を創造ている。大日如来とすべての如来たちの関係はまさにそうである。だから、大日如来がひとつのものを現象化する時、すべてのものもその現象化に同時にたずさわることになる。金剛頂経はそのことをわたしたちに伝えたかったのではないだろうか。だから、金剛薩埵の顕現を皮切りに、金剛王菩薩、金剛愛菩薩、金剛喜菩薩、金剛宝菩薩、金剛光菩薩、金剛幢菩薩、金剛笑菩薩、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛語菩薩、金剛因菩薩、金剛業菩薩、金剛護菩薩、金剛牙菩薩、金剛拳菩薩と、次々に十六大菩薩が顕現されてゆくが、それらはみな金剛薩埵と同じように、大日如来とすべての如来たちの融合によって生み出されてゆくことになる。この十六大菩薩は、密教には欠かせない菩薩たちで、理趣経にも登場するから覚えておく必要があるだろう。では、金剛薩埵以降の十六大菩薩の顕現について、ひとつずつ見てゆくことにしよう。
金剛王菩薩は、すべての如来たちから金剛名を授けられた菩薩で、元の名は不空王菩薩という。不空王菩薩は、大日如来の心から、まず言葉(言霊)として生み出される。それを目にしたすべての如来たちの心にある金剛手菩薩(金剛薩埵であり普賢菩薩)は、すべてのものを悟りの世界に引き入れる鉤(かぎ)の形となって大日如来の心の中に入り、ひとつのダイヤモンドのように光り輝く巨大な鉤(かぎ)になり、大日如来の手の中に収まる。この鉤とは、先の曲がったフック状の道具の部分で、何かを引っ掛けたり、引っ掛けて引き寄せたりするためのもの。この場合は、従わぬものを強引に引っ掛け、悟りの世界に引き寄せる法具を意味する。その光り輝く巨大な鉤から、素粒子の数ほどの数え切れない如来たちが出現して、大日如来の心の中に入り、それは不空王菩薩となる。不空王菩薩は自らを賛美する言葉を唱えると、大日如来の心の中から出て、東方・阿閦如来の右側の月輪(発光エネルギー球体)の中に座った。不空王菩薩はすべての如来たちから金剛王菩薩という灌頂名を授かると、大日如来に教えを請う。大日如来は手にしていた光り輝く金剛鉤を金剛王菩薩に渡す。素晴らしい持物を賜った金剛王菩薩は、すべての如来たちをその鉤でもって引き寄せながら、この金剛鉤はわたし自身だ、と賛嘆の言葉を述べる。という展開で、金剛王菩薩は顕現した。
金剛愛菩薩は、元の名を摩羅菩薩という。サンスクリット語はマーラーで、お釈迦さまが成道の折に、そうはさせじと悟りの邪魔をした欲望の大魔王のこと。愛欲の大王である。転じて仏道修行者の間では、修行の妨げとなる性欲のシンボルとして、男性性器のことをマラと呼んだりしたが、今でも一般に男性性器をそう呼ぶことがある。という話はまったくの余談だが、とにかくマーラーは愛欲のことと思えばいい。この愛欲を名とする摩羅菩薩は、大日如来の心の中から言葉(言霊)として現れ出る。すると例によって、すべての如来たちの心の中にいるかの尊き持金剛(金剛薩埵であり普賢菩薩)は、その言霊を見ることで、すべてのものを愛欲に導く、ダイヤモンドのように光り輝く箭(弓矢)となって、すべての如来たちの心から出ると、今度は大日如来の心に入り、ひとつになって巨大な光り輝く箭(や)となり、大日如来の手の中に収まる。その巨大な愛欲の箭から、素粒子の数ほどの数え切れない如来たちが出現して、ひとつになって大日如来の心の中に入ると、それは摩羅菩薩となった。摩羅菩薩は自らを賛美する言葉を発してから、東方・阿閦如来の左側の月輪(発光エネルギー球体)の中に座る。摩羅菩薩はすべての如来たちから金剛愛菩薩という金剛名を授かると、大日如来に教えを請う。すると大日如来は手にしていた愛欲の箭を金剛愛菩薩に手渡す。この素晴らしい持物を賜った金剛愛菩薩は、すべての如来たちをその愛欲の箭でもって射殺しながら、この愛欲の箭は自分自身であると賛嘆するのだった。と、色々なご意見があると思いますが、密教は愛欲も全面的に肯定することをとりあえず知ってもらうことにして、何はともあれ、これが金剛愛菩薩の出生の模様である。
以下の十六大菩薩の発生システムは上記の菩薩たちとまったく同じなので、これからポイントだけを明記することにする。
金剛喜菩薩は、金剛名灌頂の前の名を歓喜菩薩と言う。「善哉(善きかな)」という感動そのもののエネルギーであり、東方・阿閦如来の後方の発光エネルギー球体に坐す。
以上の金剛薩埵、金剛王菩薩、金剛愛菩薩、金剛喜菩薩の四菩薩は、阿閦如来の四親近(しんごん)菩薩であり、大日如来から阿閦如来への、いわばプレゼントとして、阿閦如来のエネルギーをそれぞが担う形で存在する。
金剛宝菩薩の金剛名灌頂の前の名は虚空蔵菩薩である。全宇宙の宝のエネルギーを内蔵し、灌頂の儀式を司る。南方・宝生如来の前方の発光エネルギー球体に坐す。
金剛光菩薩は、金剛名灌頂の前の名を大威光菩薩と言う。全宇宙の光明のエネルギーであり、南方・宝生如来の発光エネルギー球体に右側に坐す。
金剛幢菩薩は、金剛名灌頂の前の名を宝幢菩薩と言う。どんな願い事も叶える宝の珠(摩尼宝珠)が取り付けられた旗のエネルギーであり、南方・宝生如来の発光エネルギー球体の左側に坐す。
金剛笑菩薩は、金剛名灌頂の前の名を常悦喜根菩薩と言う。すべてのものに笑いによって喜びと幸福をもたらすエネルギーであり、その笑いによりブッダの奇跡を司る。南方・宝生如来の後方の発光エネルギー球体に坐す。
これら金剛宝菩薩、金剛光菩薩、金剛幢菩薩、金剛笑菩薩は、宝生如来の四親近(しんごん)菩薩である。大日如来から宝生如来への、いわばプレゼントとして、宝生如来のエネルギーをそれぞれが担う存在である。
金剛法菩薩の金剛名灌頂の前の名は観自在菩薩である。すべては平等であるという真理のエネルギーであり、西方・観自在王如来の前方の発光エネルギー球体に坐す。
金剛利菩薩の金剛名灌頂の前の名は文殊師利菩薩である。宇宙に遍満する真理の音声のエネルギーであり、仏法に従わないものを断ち切る智慧の利剣を司る。西方・観自在王如来の右側の発光エネルギー球体に坐す。
金剛因菩薩は、金剛名灌頂の前の名を纔発心転法輪菩薩(さいほっしんてんぽうりんぼさつ)と言う。悟りの心を起こせば直ちに真理の輪を回す転法輪のエネルギーであり、金剛界大マンダラそのものを司る。西方・観自在王如来の左側の発光エネルギー球体に坐す。
金剛語菩薩は、金剛名灌頂の前の名を無言菩薩と言う。すべてのブッダの真理を表す秘密の言葉のエネルギーであり、西方・観自在王如来の後方の発光エネルギー球体に坐す。
これら金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩は、観自在王如来の四親近(しんごん)菩薩である。大日如来から観自在王如来への、いわばプレゼントとして、観自在王如来のエネルギーをそれぞれが担う存在である。
金剛業菩薩は、金剛名灌頂の前の名を一切如来毘首羯磨菩薩(いっさいにょらいびしゅかつまぼさつ)と言う。インド神話のヴィシュヴァカルマン(すべてを成すもの)神が菩薩化したもの。全宇宙のすべての身体活動のエネルギーであり、北方・不空成就如来の前方の発光エネルギー球体に坐す。
金剛護菩薩は、金剛名灌頂の前の名を難敵精進菩薩と言う。すべての如来の慈悲の鎧のエネルギーであり、耐え忍び努力する(精進)の行を司る。北方・不空成就如来の右側の発光エネルギー球体に坐す。
金剛牙菩薩は、金剛名灌頂の前の名を摧一切魔菩薩(さいいっさいまぼさつ)と言う。あらゆる悪しきものを撃ち払いこらしめる金剛の牙のエネルギーであり、北方・不空成就如来の左側の発光エネルギー球体に坐す。
金剛拳菩薩は、金剛名灌頂の前の名を一切如来拳菩薩という。すべてのものを縛り、悟りに導く印契のエネルギーであり、北方・不空成就如来の後方の発光エネルギー球体に坐す。
これら金剛業菩薩、金剛護菩薩、金剛牙菩薩、金剛拳菩薩は、北方・不空成就如来の四親近(しんごん)菩薩である。大日如来から不空成就如来への、いわばプレゼントであり、不空成就如来のエネルギーをそれぞれが担っている。
以上が十六大菩薩の顕現システムをまとめたものである。まず、よく観察しておかなければならないのは、十六大菩薩は四仏の眷族として、それぞれ金剛部、宝部、法部、羯磨部に分かれてその四智のエネルギーを担当している点である。そして、金剛部の阿閦如来のエネルギーを代表しているのが金剛薩埵であり、宝部の宝生如来のエネルギーを代表しているのが金剛宝菩薩、すなわち虚空蔵菩薩であり、法部の観自在王如来のエネルギーを代表しているのが金剛法菩薩、すなわち観自在菩薩であり、羯磨部の不空成就如来のエネルギーを代表しているのが金剛業菩薩ということになる。さらに、十六大菩薩全体を構成し、そのエネルギーの根源を成しているのが、すなわち金剛薩埵である。金剛頂経の現代語訳を読めば解るが、大日如来のエネルギーの源が金剛薩埵であり、それはすべての如来の源でもあり、その源のエネルギーが十六大菩薩を創造している。金剛薩埵は普賢菩薩であり、ダイヤモンドのように永遠不滅に光り輝く悟りの心のエネルギー、つまり菩提心であり、金剛そのものであることは前にも書いたが、だから大日如来の顕現であり、悟りの宇宙そのものであるということ。要するに金剛界マンダラの主役は金剛薩埵だということである。だから十六大菩薩に限らず、これから説明する金剛界マンダラの諸菩薩は、すべて金剛薩埵をその源にしているのである。それをこれから見てみよう。
[四波羅蜜菩薩の顕現の解説]
さて、次に登場するのは、四波羅蜜菩薩である。「別序」の説明のところで少し話をしたが、この四菩薩は女性である。しかもそれぞれが四方四仏の性的パートナー、いわば愛人(菩薩だから愛菩薩というべきか)である。日本の仏教は、仏菩薩に性別を与えないようにしているが、それは男女分けをすると、性欲という煩悩を引き起こしかねない嫌いがあるため、その配慮から男女の性を超越した存在としている。しかし、例えば観音菩薩(観世音菩薩)は、もともと古代ペルシアの大地母神が源流であるから、まあ、誰が見ても女性にしか見えないし、間違いなく元々は女性尊である。チベット密教には、ヤブユムといって、あからさまに男女の尊格が合体した像があるが、これはあくまでも密教教理に基づいて、密教行者が瞑想の中で捉える悟りの境地を現している。男性尊は方便、つまり主体的に生きとし生けるものを悟りに導こうとする行動原理を示し、女性尊は智慧、つまり「空」という悟りそのものを示している。チベットの後期密教には、このふたつの原理が合一して初めてブッダという至高の存在になるという考えがある。だからヤブユム(父母尊とか合体仏とかと呼ばれている)は、密教行者の高度な瞑想法に基づいて造られたものであり、決して性行為を奨励しているのではないことを、まず認識してください。ところが、やはり人とは愚かなものである。密教が成立する初期の段階では、ヒンドゥー教の一部の派が行っていた性行為による悟りの実践(これをタントラという)をそのまま取り入れていた傾向があるし、日本においても、そのルーツは明らかではないが、鎌倉時代後期から南北朝の時代に掛けて、男性を智の金剛界マンダラ、女性を理の胎蔵界マンダラに見立て、衆目の中で性行為に及ぶ儀式が大流行した。これを真言立川流というが、この民間の儀式には真言僧が必ず立ち会ってレクチャーしている。この真言立川流については、私個人としては別に思うところがあるが、ここでは本題から外れるので、機会があれば他の投稿でお話ししたいと思う。とにかく、チベットの後期密教をセックス主義の堕落した仏教と批判するのは時代遅れも甚だしい誤解で、合体仏はあくまでも想念の世界、イメージとしての悟りの世界のことであると理解してください。そして金剛頂経の世界もそうである。欲望だらけの我々の現象世界に引き下ろして生々しい光景をイメージするのは、それこそ愚の骨頂で、そんなことでは悟りもへったくれもない。えっと、表現が古いですが解りますか?。解らなければググって自分で調べてくださいね。それもひとつの大切な知識です。
と、話がまた横道に逸れまくってしまった。時を戻そう。まず、四波羅蜜菩薩がどのようなシステムで生成されたかということだが、十六大菩薩の生成システムと基本的には変わりない。ただ、十六大菩薩が大日如来の四方四仏へのプレゼントであるのに対し、四波羅蜜菩薩はそのお返しとして四方四仏が大日如来にプレゼントしたものとなっている。これを相互供養というが、要するに四波羅蜜菩薩は四方四仏から生み出されることになる。
まず金剛波羅蜜菩薩である。東方・阿閦如来は、自らのエネルギーである金剛波羅蜜菩薩を金剛三昧耶女という印契女として心中より心呪によって現した。印契女とは、印契、すなわち身体的な行動を意味するから、ここでは性的パートナーのことになる。金剛三昧耶女とは、永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような菩提心をエネルギーとする女性パートナーのことであり、金剛部の主尊である阿閦如来のエネルギーを象徴している。このように阿閦如来のエネルギーが言葉の呪力によって現れたその薩埵金剛女を確認したすべての如来たちの心中にある持金剛(金剛薩埵であり普賢菩薩)は、すべての如来たちの心中から眩い光となって現れた。その光は素粒子の数ほどの無数の如来になり、阿閦如来の心中に入ってひとつになり、光り輝く巨大な金剛杵となって、大日如来の東方の発光エネルギー球体の中に坐し、賛嘆の言葉を述べる。「ああ、実にわたしは堅固な存在です。すべてのブッダの堅固不滅の存在です。たとえ姿が見えなくとも、すべてのブッダの本質が堅固不滅であることは、こうしてわたしが金剛の体を持って顕現したからに他なりません!」と・・。
薩埵金剛女とは金剛波羅蜜菩薩のことである。彼女は、まあ、金剛薩埵の女性版として捉えても間違いではない。つまり金剛薩埵の本源である金剛杵そのものが金剛波羅蜜菩薩であり、それを如実に示しているのは、大日如来の球体エリアと阿閦如来の球体エリアを挟んで、この両者は向かい合わせに座っていることである。これは金剛薩埵のエネルギーを受けた金剛波羅蜜菩薩が大日如来と冥合することで大日如来にそのエネルギーを伝達し、また反対に大日如来のエネルギーを金剛波羅蜜菩薩を通して金剛薩埵に伝達するという、相互方向のツールとしての役割を担っていることになる。もっと広い意味では、金剛部の阿閦如来と如来部の大日如来を結ぶ伝達ツールとして重要なポディションにいるのが金剛波羅蜜菩薩ということになる。
他の四波羅蜜菩薩も、このように大日如来と宝生如来、観自在王如来、不空成就如来をそれぞれに繋げるツールである。言い換えれば、四波羅蜜菩薩はエネルギー交換ツールということ。そのことを念頭において、以下の四波羅蜜菩薩を概略して見てみよう。
宝生如来から生み出された宝波羅蜜菩薩(宝金剛女)は、大日如来と宝生如来を結ぶ伝達ツールである。宝部の金剛宝菩薩と対面し、金剛宝菩薩のエネルギーである、すべてのものに恵みを与え灌頂する宝の蔵のエネルギーを、金剛宝の姿で相互伝達する役割を担っている。
観自在王如来から生み出された法波羅蜜菩薩(法金剛女)は、大日如来と観自在王如来を結ぶ伝達ツールである。蓮華(法)部の金剛法菩薩と対面し、金剛法菩薩のエネルギーである、すべてのものが平等であるという真理(法)とすべてのものを清らかにするというエネルギーを、金剛蓮華の姿で相互伝達する役割を担っている。
不空成就如来から生み出された業波羅蜜菩薩(羯磨金剛女)は、大日如来と不空成就如来を結ぶ伝達ツールである。羯磨部の金剛業菩薩と対面し、金剛業菩薩のエネルギーである、すべてのものに働きかける行動のエネルギーを、金剛羯磨の姿で相互伝達する役割を担っている。
これら四波羅蜜菩薩も、その源は金剛薩埵の悟りのエネルギーであることを忘れてはいけない。
[八供養菩薩の顕現の解説]
さて、こうして大日如来と四方四仏は交互にプレゼントし合った訳であるが、それでも大日如来はまだ供養したりないとでも思ったのか、四方四仏に新たなプレゼントする。それが「内の四供養菩薩」である。四方四仏の方は、これはこれはご丁寧に申し訳ない、として、今度は大日如来にプレゼントし返す。これが「外の四供養菩薩」である。恩を受けたら恩で返す。恩返しです。ということで、これが相互供養ということだが、この「内の四供養菩薩」と「外の四供養菩薩」のふたつを合わせて「八供養菩薩」という。
まず大日如来が東方・阿閦如来にプレゼントしたのが金剛嬉菩薩である。大日如来は瞑想に入って、すべての如来たちが愛してやまない大天女を、金剛嬉戯女(こんごうきげじょ)として自らの心の中から心呪によって顕わす。金剛嬉戯女とは、永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような遊女のこと。こうして言葉のエネルギーとして現れた金剛嬉戯女を見たすべての如来たちは、その心の中から金剛印契女を出現させる。金剛印契女とは、前述のように永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような性的パートナーのことである。この金剛印契女の口から、かの尊き持金剛(金剛薩埵であり普賢菩薩)が素粒子の数ほどの無数の如来となって出現し、ひとつになって金剛嬉戯女となり、阿閦如来の左側、つまり金剛界大マンダラの東南の外円の隅の発光エネルギー球体の中に座った。そして高らかに自分をこう賛美する。「ああ、あらゆる自らを生み出すもの(如来のこと)を供養することにおいては、わたしほどの優れたものはいません。なぜなら、わたしがするように愛欲の喜びによって供養することがあってこそ、すべての供養が成り立つからです!」・・。とこれが金剛嬉菩薩の顕現ストーリーである。なんかすごいことになっている。大日如来は遊び女(あそびめ)、つまり遊女を阿閦如来にプレゼントしたのである。そもそも「嬉」とは喜びのことではあるが、ただの喜びではなく、色気によって悩殺して喜ばせるという意味である。悩殺の意味が解らないかも知れないから、解りやすく言うと、セクシーなポーズで相手をメロメロにすることである。ここで改めて繰り返すが、密教の悟りの世界とは、至高の悦楽の世界である。我々が経験する楽しみとは比べ物にならない、次元の違う楽しみがそこにある。うらやましいと思うなら、どうぞ悟ってみなさいよ、という声が宇宙の何処かから聞こえてくる。皆さんも試しに悟ってみることを、ぜひお勧めする。それはともかく、この金剛嬉菩薩はズバリ、金剛薩埵の愛人である。もともと如来たちの遊女であったところを、金剛薩埵が身請けしたと解釈していい。言い方が生々しいかも知れないが、解りやすく言うとそうなる。
ここでまたそもそも論になるが、金剛嬉菩薩と聞いただけでは、それが男なのか女なのかも解らない。まして遊女であるとは全く思いも寄らない。実はそれを解らなくするために金剛嬉菩薩なんていう男か女か解らない堅苦しい名前をつけたのである。原文の翻訳の通りに金剛嬉戯女とすれば良いところをそうしなかったのは、金剛頂経が中国で漢字に翻訳される際、性愛の表現を極力慎む儒教の国の慣わしとして、そうせざるを得なかったからに違いない。あからさまに性的な表現をしたら世間の反発を食らうし、お上から布教の許可なんか受けられない。いや、下手をすると潰される。これはヤバい、ということで、あえてオブラートに包むように男か女か解らない名前にした。これは金剛嬉菩薩に限らず、前出の四波羅蜜菩薩もそうだし、これから解説する他の八供養菩薩もそうである。「カーマ・スートラ」という性愛の指南書が公然と流布しているような、性愛に対して極めておおらかなインドとは文化が違うのである。当時、中国文化を吸収することだけに躍起になっていた日本では、従ってこれらのオブラートに包んだ漢訳を、何の批判もなく素直に受け入れた。そして現代に至るである。仏典が堅苦しくて解りづらいのは、実はこうしたカラクリがあった。まずそれを解消して、面白くて解りやすいものにイメージ・アップしようとゆうのが本作の意図である。そうなったかどうかは、読み手のあなた次第であるが・・。
話を戻すと、金剛嬉菩薩が金剛薩埵の愛人になったというのは、いったいどうゆうことなのだろう。金剛薩埵は、すべてのエネルギーの源である。これはもう何度も述べている。金剛嬉菩薩も源である金剛薩埵のエネルギーから生成されている。金剛薩埵は大日如来の具現である。また金剛部の代表でもある。従って、大日如来が阿閦如来に金剛嬉菩薩をプレゼントしたということは、金剛薩埵にプレゼントしたことになるということ。金剛頂経は徹頭徹尾、金剛薩埵が主役なのである。
さて次の大日如来のプレゼントは、南方・宝生如来へである。発生システムは金剛嬉菩薩と同じだから、以降はいつものように簡略して説明する。
宝生如来へのプレゼントは金剛鬘菩薩(金剛鬘女)である。慢(まん)とは華鬘(けまん)のことであり、頭につける華飾りのこと。女性がつけると、何とも美しく愛らしい。また王権の象徴でもある。宝生如来の左側、つまり金剛界大マンダラの外円西北の隅の発光エネルギー球体に坐す。
観自在王如来へのプレゼントは金剛歌菩薩(金剛歌女)である。歌声によって喜ばせる遊女である。観自在王如来の左側、つまり金剛界マンダラの外円の西北の隅の発光エネルギー球体に坐す。
不空成就如来へのプレゼントは金剛舞菩薩(金剛舞女)である。踊りによって喜ばせる遊女である。不空成就如来の左側、つまり金剛界マンダラの外円の北東の隅の発光エネルギー球体に坐す。
以上が内の四供養菩薩である。意識すると解るが、それぞれ金剛部、宝部、蓮華(法)部、羯磨部の要素を持っている。金剛嬉菩薩は悟りの心のエネルギーである金剛杵。金剛鬘菩薩は宝冠でもある華鬘。金剛歌菩薩は歌すなわち言葉。金剛舞菩薩は踊りすなわち動き。このように常に五智を意識して金剛頂経を読み解くと、実はすごく解りやすい。
次は外の四供養菩薩である。今度は四方四仏から大日如来へのプレゼントである。発生システムは、今までとほぼ変わらないので、簡略して説明する。
阿閦如来のプレゼントは金剛香菩薩(金剛焼香女)である。すべての如来を芳しき焼香の香りで喜ばせる遊女。マンダラの中心を囲む四角い内枠の東南の角(左斜め下)の発光エネルギー球体に坐す。
宝生如来のプレゼントは金剛華菩薩(金剛華女)である。美しく艶やかな華の遊女。マンダラの中心を囲む四角い内枠の南西の角(左斜め上)の発光エネルギー球体に坐す。
観自在王如来のプレゼントは金剛燈菩薩(金剛燈明女)である。燈明のともしびの遊女。マンダラの中心を囲む四角い内枠の西北の角(右斜め上)の発光エネルギー球体に坐す。
不空成就如来のプレゼントは金剛塗菩薩(金剛塗香女)である。塗香(手に塗る粉末状のお香)の遊女。マンダラの中心を囲む四角い内枠の北東の角(右斜め下)の発光エネルギー球体に坐す。
これらも遊女であるが、その源は金剛薩埵のエネルギーである。彼女たちは焼香、華、燈明、塗香と仏前に供養するものたちだから、そのままで説明する必要もなく解りやすい。ただ、塗香にはブッダの身体的な特徴を表現する「戒」「定」「慧」「解脱」「解脱知見」という五要素を浄化する作用があるとしている。
[四摂の菩薩の解説]
金剛界大マンダラ三十七尊の最後は四摂(ししょう)の菩薩である。大日如来が生み出した、彼女達も印契女である。それぞれが金剛界大マンダラの東西南北の門衛者であり、また我々をマンダラ世界に引き入れる役割を担っている。そして金剛薩埵がその生成の源のエネルギーであるのはもちろんである。その生成システムは上記の菩薩たちとほぼ変わらないので、簡略して説明する。
金剛鉤菩薩はマンダラの内枠の東側の門の門衛者である。鉤(かぎ)は十六大菩薩の金剛鉤菩薩の説明でも話したように、何かを引っ掛けて引き寄せるフック状の道具で、誰であろうと有無を言わさずマンダラ世界に引き寄せるエネルギーを持つ。
金剛索菩薩はマンダラの内枠の南側の門の門衛者である。索(さく)は投げ縄のように何かを絡め捕る紐状の道具で、誰であれその索で絡め捕って有無を言わさずマンダラ世界へ引き入れるエネルギーを持つ。
金剛鏁菩薩はマンダラの内枠の西側の門の門衛者である。鏁(さ)は鎖のことであり、相手を縛りつけるもの。誰であれその鎖で縛りつけ、マンダラ世界から逃げられないようにするエネルギーを持つ。
金剛鈴菩薩はマンダラの内枠の北側の門の門衛者である。鈴(れい)は癒しの音色でもって、誰であれマンダラ世界に引き入れたものを安楽にするエネルギーを持つ。
以上が四摂の菩薩であるが、この「鉤」「索」「鏁」「鈴」はワンセットであり、つまりマンダラの中に、あらゆる生きとし生けるものを鉤で引っ掛け、索で引き込み、鏁で縛りつけ、そして鈴で癒して悟りを得させる、という一連の流れがある。
[一切如来の集会の解説]
さて、こうして金剛界大マンダラにおける主要三十七尊が出揃ったが、しかし、実はまだマンダラは完成したわけではない。本当の完成は、全宇宙の一切の如来が集合して初めてそれが成される。これからそのシーンである。
大日如来は、すべての如来たちを集めるために、堅固不滅の指打ち(指弾)をし、そしてすべての如来たちに集合を掛ける心呪を唱えた。
「金剛集会よ」
するとその刹那、全宇宙の素粒子の数ほどの如来たちが金剛摩尼宝頂楼閣に集まり、大日如来の御足に礼拝した。そして四方四仏よりエネルギーを注入され、一斉に大日如来の心の中に入った。すると今度はそのすべての如来たちから数えきれない数の菩薩たちが現れ、金剛摩尼宝頂楼閣の周りを取り囲む。こうしてついに全宇宙の集合エネルギー体としてのマンダラが完成されたのである。
「金剛頂を読み解く」解説(中編)
【終】