「理趣経を読み解く」解説(後編)
[第四段・観照の法門の解説]
『その時でした。世尊であられる自性法性清浄如来さまは・・』から観照の法門は始まる。ではこの自性法性清浄如来とは誰かと言えば、観自在王如来のことである。「その本質が清らかであることを宇宙の法則としている如来」というような意味で、まさに観自在王如来そのものを表現している。で、この観自在王如来は阿弥陀如来のことである。西方の極楽浄土の教主である阿弥陀如来の別名が観自在王如来ということ。また阿弥陀如来には無量寿如来とか無量光如来とかの呼び名がある。要するに阿弥陀さまにはたくさんの別名がある、ということである。そして第三段の教主が東方の阿閦如来であったことを思い出せば、これにはある法則性が存在していることが解る。この件は段を追うごとに明らかになるから、後にまとめて説明することにする。この観自在王如来の説法とは、
『世の中のあらゆるものごとは平等であり、それはすべてを余すところなく観て、すべてを救済することが出来る観自在菩薩の働きにより顕された、悟りに至る真理に他ならない。それはこのようなものである
世の中のあらゆる欲望は清らかなのだから、すなわちあらゆる怒りは清らかなのである
世の中のあらゆる心の汚れは清らかなのだから、すなわちあらゆる罪は清らかなのである
世の中のあらゆる現象は清らかなのだから、すなわちあらゆる命は清らかなのである
世の中のあらゆる智慧は清らかなのだから、すなわち般若波羅蜜多は清らかなのである』
世の中のいっさいがっさいはみんなみんな清らかなのだ、と観自在王如来はおっしゃる。それは観自在菩薩の心のエネルギーである救済意識から導き出されたものだという。金剛界大マンダラ(成身会)を見れば解るように、西方の観自在王如来の球体エリアに座るその四親近菩薩の筆頭は金剛法菩薩、すなわち観自在菩薩である。観自在王如来のエネルギーが顕現化したのが観自在菩薩であるということ。このすべては清らかであるという悟りのエネルギーを持ってすれば、あらゆるものは清らかとなる。煩悩もすべての罪もである。もちろん第三段の解説でも述べたように、それはあくまでも悟っていることが前提になる。あなたは目の前にあるすべてのことが清らかに見えますか?。それが出来て初めて煩悩もすべての罪も清らかになる。俗世のしがらみに心を囚われ、自分の価値基準でものごとを差別し、常に目の前のことに一喜一憂している我々にとって、その目の前のことが何もかも清らかに見えるなんて、どう考えても不可能だろう。なぜなら悟っていないからである。だから観自在王如来は悟りなさいとおっしゃっている。『金剛薩埵よ。そのためには、このすべては清らかであるという四清浄の教えを読誦し、暗唱し、常に心に刻みつけていること。そうすればすべてが「空」であるという般若波羅蜜多の境地に至り、たとえ様々な欲望に塗れた世界にいようが、蓮華の如く諸々の塵芥(ちりあくた)に染まることなく、いずれは最高の悟りに至ることが出来るだろう』という。あくまでも対告衆の筆頭は金剛薩埵である。観自在王如来は金剛薩埵に向けて説法している。するとおそらくその脇にいたであろう観自在菩薩は、このあらゆるものは本来清らかであるという教えを明確に表現しようと、お顔に微笑みを浮かべ、蓮華の花のようにあらゆる欲望に染まらない勢いをみせながら、すべての命あるものは様々な色合いを持ってその個性を生かしながら生きている、という心を「キリーク」という種字に表して唱えた。この第四段では観自在菩薩が三密のエネルギーを放って悟りを表現するが、それは観自在王如来と観自在菩薩は二味一体であるからである。だったら観自在王如来は直接、観自在菩薩に話しかければいいものを、なぜ金剛薩埵を通してワン・クッション置くのか。なんか観自在菩薩が観自在王如来に無視されているみたいでかわいそうじゃないか、という意見が聞こえてきそうだが、理趣経の主人公はあくまでも金剛薩埵である。大日経も金剛頂経も主人公は金剛薩埵である。理由は何度も述べているが、金剛薩埵は大日如来という宇宙エネルギーの顕現であり、すべての存在に行き渡る悟れる心(菩提心)の源である。従って、すべては金剛薩埵であり、そしてあなたであるということ。あなたが金剛薩埵なんだから、教主がまずあなたに向けて法を説くのは当然である。なぜならあなたがこの宇宙の主人公なのだから。
[第五段・富の法門の解説]
さて次は富の法門である。『その時です。世尊であられる一切三界主如来は・・』から富の法門は始まる。一切三界主如来とは、欲界・色界・無色界という我々の三段階の精神世界において、そのすべての主である如来ということで、これは宝生如来のことを指している。じゃあ、どうして宝生如来なのかといえば、宝生如来のエネルギーは宝であり、すべての世界のあらゆるものに福徳を与える効力を持っているから。で、その教えというのは
『すべての如来が持つ智慧の蔵を開いてすべてのものに灌頂を施すことは、悟りの智慧に至る真理である。それはこのようなものである。
すべてのものに灌頂を施すことは、すべてのものを全世界(三界)の法王の位に就かせることになる
すべてのものに利益を施すことは、すべてのものの願いを満足させることになる
すべてのものに真理を施すことは、すべてのものの心を円満にさせることになる
すべてのものに命の資(もと)を施すことは、すべてのものを食べるものに困らなくさせ、身体も心も言葉もすべて安楽にさせることになる』
と宝生如来は説かれた。灌頂は、この「密教経典を読み解く」シリーズでは何度も説明しているように、基本的には四海の水を頭上に灌ぐインドの王位継承儀式である。それが密教に取り入れられ、全宇宙の法王つまり大日如来となる儀式に転化する。すべての如来たちから全宇宙のすべての智慧を頭上に灌がれることにより、全宇宙の法王(大日如来)が誕生するということ。さらにこの施しの儀式は用途に応じて分化され、密教経典の儀軌(マニュアル)に基づき、弟子の入壇儀式や特定の仏尊と縁を結ぶ儀式(血縁灌頂)、正式な密教阿闍梨として認可する儀式(伝法灌頂)などに応用された。要は一種のイニシエーション(通過儀礼)なのだが、悟りの世界においては別の意味を持つ。この施しの儀式により、あらゆるものを幸福に導くことが出来る。すべての如来たちが天上からサア〜と智水を撒くことで、それを頭上に浴びた我々は様々な恩恵を受けるのである。こうして曲がりなりにも幸せに生きられるのは如来さま達のお陰であることを、たまには空を見上げて感謝しなければバチが当たるというものである。それはさておき、このような恩恵には四つの種類があると宝生如来さまは説かれる。まずすべてのものを宇宙の法王にする恩恵。これは凄い、つまり誰でも大日如来になれるということである。ぜひこの灌頂を受けてみたいものだが、そのためにはまず悟っていなければならない。この三次元の物質世界にしがみついて右往左往している低次元のレヴェルではおこがましいもいいところだ。これはハードルが高すぎるということで、次はどんな願いも叶えてくれる灌頂である。いや素晴らしい。ただしこれも天に向かって他力本願しているだけでは叶う筈がない。自分の宇宙は自分で構築しているという意識、つまり自分は大日如来(金剛薩埵)である、という自覚があってこそ成し得る。だからこそどんな願いも叶うのである。それが他力でも自力でもない自他力という密教の真髄である。さらに四つめはすべての宇宙の真理を手に出来る灌頂である。これも素晴らしい。ではすべての宇宙の真理とは何か。この宇宙そのものがわたしであるということ。だからわたしはあなたであり、あなたはわたしであり、わたしは草花であり草花はわたしであり、山や海や川はわたしでありわたしは山や海や川であり、わたしはあらゆる動物でありあらゆる動物はわたしであり、わたしは椅子や机や冷蔵庫であり椅子や机や冷蔵庫はわたしであり・・だからわたしは宇宙そのものである、というのが宇宙の真理である。さあ、あなたはそれに気付けるだろうか。最後の五つめは、命の糧である食物の灌頂である。といっても食べ物が空から降ってくるような、そんな旧約聖書のようなお伽話ではない。この地球の自然が地球人である我々に命の営みを供給してくれている。まさにそれこそがすべての如来たちからの施しなのである。それすらも気づけない愚かな地球人は、自らの欲望で環境を破壊し自然の恵みを根絶やしにし、弱きものから物資を奪い取り、それをさらに加速するという呆れた所業をしでかすことによって自分で自分の首を絞め続けているのである。さあ、どうする?。少なくとも古代人たち、いや現代でも自然とともに生きている一部の人々は、自然を神と思い、自然に感謝し、分かち合う心を持って生活している。その心に立ち返ることこそ、如来の施しを享受出来るのである。だったらみんなでそう努力しましょう、ということ。
さてこの宝生如来の説法を聞いた虚空蔵菩薩は、この四つの施しの智慧を明確に表現しようと、お顔に微笑みを浮かべ、ダイヤモンドと宝玉で飾られた宝冠を自らの頭に被り、すべての智慧を灌ぎ施すことによる悟りの智慧は掛け替えのない宝である、という心を「タラーン」という種字に表し唱えた、という。虚空蔵菩薩は本経序説では対告衆の代表である八大菩薩のひとりであり、金剛界大マンダラの南方・宝生如来の球体エリアにおける四親近菩薩の筆頭である。金剛宝菩薩となっているのは、虚空蔵菩薩の金剛名である。前段の観自在王如来(阿弥陀如来)と観自在菩薩が二位一体であるのと同じように、宝生如来と虚空蔵菩薩は二位一体なのである。大宇宙に広がる無尽蔵の智慧の母胎のエネルギーである虚空蔵菩薩は、「虚空蔵求聞持法」という密教修法の本尊であるが、これは虚空蔵菩薩の真言を一日一万回百日で百万回唱え続けることで記憶力を増大させる効力があるといわれ、弘法大師空海さんは室戸岬の御厨人窟でこの行を修し終わると、天空から明けの明星が光の珠となって心の中に入った、と自ら伝えている。
[第六段・実働の法門の解説]
実働の法門の教主は、得一切如来智印如来(とくいっさいにょらいちいんにょらい)である。すべての如来の印契の智慧を所持した如来ということ。印契は何度も説明しているように三密のうちの身密であり、手で印を結ぶことによって活動のエネルギーを放出することである。この如来は不空成就如来のこと。北方・不空成就如来のエネルギーは「活動」である。その不空成就如来さまは、こうお説きになられた。
『すべての如来の智慧の活動は、悟りに至る真理の道にエネルギーを注入することに他ならない。それはこのようなものである
すべての如来の身体活動を身につければ、すなわちそれはすべての如来の身体そのものとなる
すべての如来の言語活動を身につければ、すなわちそれはすべての如来の真理を語れるものとなる
すべての如来の心の活動を身につければ、すなわちそれはすべての如来の悟りの境地を体現するものとなる
すべての如来の永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような金剛不壊の活動を身につければ、すなわちそれはすべての如来の身体活動、言語活動、精神活動を司り、最も勝れた究極の境地を我ものに出来る
金剛薩埵よ。もしこの「如来の活動を自ら身につける四つの真理」という教えを聞き、身に保ち、読誦し、常に思い巡らせるならば、すべての働きとすべての成果が我ものになり、すべての身体活動、言語活動、精神活動がダイヤモンドのように堅固不滅に光り輝き、すべてが完全無欠になり、そして究極の悟りを得ることが出来るだろう』
おお、素晴らしい。如来の三つの活動、つまり身体活動、言語活動、精神活動という三密を身につければ如来そのものになれる。そういう教えである。密教行者が修法する三密加持の原理がここに説かれている。三密加持については「大日経を読み解く」の解説にあるのでそちらを見てください。さあ、それならさっそく三密加持の修行をしよう。とその前に師匠から認可を受けて修法の伝授を授かってから。じゃあ、ムリじゃん、となるが、何も三密加持行をしなくても、例えばア字観の瞑想に熟達すればブッダとひとつになれるし(金剛頂経を読み解く参照)、自らがブッダであると思い込み、ブッダの動きをし、ブッダの言葉を話し、ブッダの心になれば、つまりブッダになれる。常に意識を高次元に向けて、自分の行動にすべて責任を持ち、言葉の使い方に責任を持ち、心を冷静沈黙な状態に保ち続けること。さらにすべてのものに慈愛の心を傾け、すべてが平等で清らかであるという意識に至っていること。それがブッダとして生きることだが、さあ、あなたは出来ますか?。なかなか出来ないから修行がある訳だが、三密加持の修行をしたからといって、必ずしもそうなるとは限らない。ではどうすればいいか。自分が宇宙のエネルギーそのものであると気づくことがまず大切であり、そこからすべての可能性が広がる。あくまでも可能性ではあるが、意識のベクトルを常に高次元に向けていることが悟りの第一歩であると、それが悟ったつもりでいるわたしの確信である。
さて不空成就如来さまは、そうお説きになると、自らその教えを明確に表現しようと、お顔に微笑みを浮かべ、金剛拳菩薩の姿に変身され、大三昧耶印を結んで、金剛のように堅固不滅の活動によって、誰であろうと悟りの境地を達成することは真実であるという心を「アーク」という種字を発してお唱えになられたのでした、という。金剛界大マンダラにおける北方・不空成就如来の四親近菩薩の筆頭は金剛拳菩薩である。この金剛拳菩薩が不空成就如来のエネルギーの顕現であり、両者は二位一体の関係にある。金剛拳の拳は活動のエネルギーを現しているからである。
ここまでで頭が混乱してきた人もいると思うので、初段からこの第六段までを、とりあえず纏めてみよう。
まず初段の「大楽の法門」の説法者は、大宇宙のエネルギーそのものである大日如来であり、聞き手はその顕現である金剛薩埵となる。この初段がなんと言っても理趣経のメイン・テーマ。愛欲こそが悟りのエネルギーであるというテーマの、この初段だけで理趣経一巻が成立すると言っていい。極端に言えば、後の段はその補足というところ。そこを読み解けないと理趣経は解らない。
で、第二段の「証悟の法門」は、エネルギーの状態だった大日如来が今度は自ら見える形で姿を現し、そして自らのその悟りの境地を三密で顕わす。これはどういう意味かと言えば、「証悟の法門」では、大円鏡智、平等性智、妙観察智、常所作智という四智如来の智慧が平等であることが説かれており、だから最後に大日如来が自ら、その四智が集合した究極の智慧である法界体性智、つまり大日如来の智慧を三密で表現しているということである。この第二段が、この後の段のプロローグとなる。つまり理趣経の補足部分の始まりは第二段から、ということ。そして第三段以降が補足の各論となる。すなわち四智如来の具体的な智慧の開示である。なおかつ第三段以降では本経序説で登場する八大菩薩が順番にその四智如来の顕現として三密を顕わすという構造になっている。
第三段の「降伏の法門」では阿閦如来の智慧である「すべてのものには意味のないものはない」という大円鏡智が説かれ、それに対応するのが金剛手菩薩つまり金剛薩埵となる。金剛薩埵はさらに阿閦如来の教令輪身である降三世明王に変身して三密を顕わすが、この金剛薩埵はあくまでも初段の金剛薩埵と切り離して考えるべきである。初段の金剛薩埵は大宇宙のエネルギーである大日如来の顕現としての金剛薩埵。第三段の金剛薩埵は、阿閦如来の四親近菩薩の筆頭としての金剛薩埵である。メインである初段の金剛薩埵と補足のこの各論で現れる金剛薩埵は、まったく意味が違うのだと認識していないと理趣経は解けない。その前に金剛界大マンダラのシステムが解っていなければすでにお手上げになる。とにかく阿閦如来と対応しているのが八大菩薩の一尊でもある金剛薩埵ということである。
第四段の「観照の法門」では観自在王如来の智慧である「すべてのものは清らかである」という妙観察智が説かれ、それに対応するのが観自在王如来の四親近菩薩の筆頭であり、八大菩薩の二番目に当たる観自在菩薩となる。八大菩薩は順番に四智如来に対応していることになる。ただ、四智如来は金剛界大マンダラの構成では東南西北の時計回りの順になっているが、本経では阿閦如来の次に観自在王如来となり、次に宝生如来、最後に不空成就如来と東西南北の順に変わっている。この点の意味は不明である。おそらくは、まず序説で金剛頂経に基づく八大菩薩が設定され、その順番で四智如来の順番が後付けされたのだろう。
第五段の「富の法門」では宝生如来の智慧である「すべてのものに施しを与える」という平等性智が説かれ、それに対応するのが宝生如来の四親近菩薩の筆頭であり、八大菩薩の三番目に当たる虚空蔵菩薩である。
第六段の「実働の法門」では不空成就如来の智慧である「すべてのものに働きかける」という常所作智が説かれ、それに対応するのが不空成就如来の四親近菩薩の筆頭であり、八大菩薩の四番目に当たる金剛拳菩薩ということになる。
このように四智如来と八大菩薩は順番に対応しているが、では第六段までに対応していない残りの四菩薩の立場はどうなるのか。この件は第七段以降の解説で読み解いてゆくことになるが、わたしの理趣経における総合的な見解は、まず序説と初段だけが理趣経として説かれていた。ただそれだけでは物足りないないと感じたのだろう、金剛頂経に対告衆として明記されている八大菩薩を序説に書き足し、初段の補足として四智如来と八大菩薩が対応する構造を持つ段を付加した。ただそうなると、四智如来に対応していない残りの四菩薩の対処を考えなければならない。そこでさらに新たな段を付加してゆくことになった、ということ。あまりにも大胆な仮説と思われるだろうが、どの経典も最初から完成されたものはない。まず主張すべきメインの経があり、それに長い年月を掛けて補足部分が付け足され、現在の形で流布している。理趣経もその大もとである理趣広経も間違いなくそうである。だからどうしても矛盾する部分が出てくる。それを無理矢理結びつけて整合性を図ろうとするから、どう考えても理解不能な珍妙でヘンテコリンな解釈が世に出回る。経を説いている本人もよく解っていないから、それを有り難がって聞いている側は余計に解らない。経典は過去の長い間に何人もの手で書き加えられたのだから、矛盾があって当たり前。そうゆう視点から客観的に読み解いていかなければ、経典の本質を見誤ることになる。ではどうすればいいか。結局、最終的には自分のインスピレーション(霊感)であり、それに基づく直観智しかない。つまりはそうゆうことである。
[第七段・字輪の法門の解説]
第七段の字輪の法門の教主は、一切無戯論如来(いっさいむけろんにょらい)である。えっ、ダレ?・・てなるのも仕方ない。どの仏典にもマンダラにも登場したことがないから、おそらく理趣経オリジナルの如来さまだろう。金剛頂経によると、この宇宙にはガンジス河の砂の数ほどの如来さまがいるということだから、初めてお目見えする如来さまがいてもまったくおかしくない。で、この一切無戯論如来とは、善悪などの二元論にこだわるというくだらない価値判断を超越した如来ということある。第三段でも無戯論を唱えているので重複しているのではないかと勘繰るかも知れないが、この第六段は、わたし個人としてはまさに密教の真髄を表現していて一番好きな段である。さて、ではこの一切無戯論如来の教えとは
『この宇宙のあらゆるものは実体のないエネルギー空間(空)から生み出されたものだから、そもそもその本質には実体がない(『諸法の空』)
この宇宙のあらゆる現象は実体がないのだから、そもそもその本質には定まった形状はない(『諸法の無相』)
この宇宙のあらゆる現象は定まった形状はないのだから、そもそも形状のないものにあれが欲しいとか失いたくないとかの願いを持つことは意味がない(『諸法の無願』)
この宇宙のあらゆる現象の本質は、宇宙の根源から降り注ぐ眩い光によって形成されているのだから、従って悟りに至る智慧はこの光明のように清らかなのである(『諸法の光明』)
この時でした。世尊の説法を聞いていた文殊菩薩は、少年のように純粋なお姿そのままに、この「宇宙の本質は光そのものであり、実体もなければ形状もなく、願うべき対象ものない、という悟りに至る四つの真理」をより明確に表現しようと、お顔に微笑みを浮かべ、手にされていた智慧の利剣で、すべての如来も光そのものであり、実体も形状も願うべき対象でもないことを証明するために、その幻影をめった斬りにしながら、この悟りに至る智慧が最も勝れたものである、という心を「アン」という種字に現して唱えたのでした』
いや、素敵な教説だと思う。この宇宙は光そのもの、眩く純粋な光のエネルギーで出来ている。我々があると思い込んでいる実体も形状も、すべて幻影に過ぎない。つまりすべては「空」なのである。すなわち空なる宇宙は美しい光のエネルギーに満ち溢れている。実はそんな素晴らしい宇宙に、わたしたちは今、いるのである。物やお金に執着して右往左往していることがバカバカしくなってくる。そしてその教えに反応したのが文殊菩薩である。八大菩薩の五番目に当たる。純粋無垢な少年の姿で描かれることの多い文殊菩薩は、宇宙の音声のエネルギーであり、密教的には種字を司る菩薩として、その種字を転じてエネルギーに変換する能力を持つ。また、くだらない差別的な価値観を智慧の利剣でぶった斬る菩薩と言われている。そんな文殊菩薩が、一切無戯論如来の教えを聞いて、その教えを明確に表現しようと、すべての如来たちをめった斬りにする。これまた物騒な話になった。だが賢明な人はもうお解りだと思うが、本来、すべてのものは実体もなく形状も持たないのだから如来も斬って斬れるものではない。空なる光そのものなのだから。そのことを我々に気づかせるための、それが文殊菩薩のやり方という訳。そして密教的解釈では、一切無戯論如来は文殊菩薩の如来形、つまり文殊菩薩が如来になったのが一切無戯論如来だとしている。悟りの世界はなんでもあり、ということ。
[第八段・入大輪の法門の解説]
第八段の入大輪の法門の教主は、入大輪如来である。大輪とは大きな輪のことであり、輪とはこの場合、法の輪のこと。お釈迦さまが五人の修行仲間(五比丘)に向かって初めて法を説いたエピソードのことを「初転法輪(しょてんほうりん)」というが、要するに仏法の輪を転ずる、つまり仏の教えが波紋のように広がってゆくことを指している。サンスクリット語のチャクラである。この大きな法の輪にすべてのものを包み入れるエネルギーが入大輪であり、それを司るのが入大輪如来ということになる。こちらも理趣経オリジナルの如来さまだ。さてこの入大輪如来の教えとは
『大きな法の輪にあらゆる生きとし生けるものを導く境地は、まさに悟りの智慧に至る道に他ならない。それはこのようなものである
堅固不滅に光り輝く平等(金剛平等)の輪に入ることは、すなわちすべての如来の悟りの輪に入ることに他ならない
すべてのものに施しを与える平等(義平等)の輪に入ることは、すなわちすなわち偉大な菩薩の慈悲の輪に入ることに他ならない
すべてのものに宇宙の真理を授ける平等(法平等)の輪に入ることは、すなわち宇宙の真理そのものの輪に入ることに他ならない
すべてのものに働きかける平等(一切業平等)の輪に入ることは、すなわち宇宙の働きそのものの輪に入ることに他ならない』
これを「四種の輪円」というが、第二段の証悟の法門で説かれた「四平等」の教説を思い出せば、これがその進化形であることが解る。阿閦如来の智慧である大円鏡智、宝生如来の智慧である平等性智、観自在王如来の智慧である妙観察智、不空成就如来の智慧である常所作智というこれらの四智はみなすべてのものに平等に作用することを説いたのが「四平等」であるが、この第八段の入大輪の法門では、それらの四智の平等がさらに法の輪として表現され、その法の輪に入ることの功徳を説いている。では法の輪とは何か。それは球体状のエネルギー・エリアのこと。法は宇宙のことだから「法の輪」とは、球状をした宇宙のエネルギー・エリアを指している。これが輪円である。
「わたし」には見える範囲、聞こえる範囲、匂いを嗅げる範囲、味覚出来る範囲、触れることの出来る範囲がある。さらに行動出来る範囲、言葉や文字が伝わる範囲、想像出来る範囲がそれぞれにある。「わたし」は「わたし」のそのエネルギーの届く範囲の中で生活している。それが「わたし」のエネルギー・エリアである。言い換えれば、そのエネルギー・エリアが「わたし」の宇宙ということ。変わって如来のエネルギー・エリアは、この大宇宙そのものである。宇宙の隅々まで余すところなく見えるし聞こえるし匂いも嗅げるし味わえるし触れることも出来る。さらにこの宇宙のあらゆる身体活動、言語活動、精神活動つまり三密が自由自在になる。これが如来のエネルギー・エリアである。その如来のエネルギー・エリアには「悟り」「施し」「真理」「働き」の四つのカテゴリーがある。すなわち阿閦如来の大円鏡智、宝生如来の平等性智、観自在王如来の妙観察智、不空成就如来の常所作智である。この四智如来の四つのエネルギー・エリアに入ることが入大輪であるが、では「わたし」はどのようにすれば、この大宇宙のエネルギー・エリアに入ることが出来るのだろうか。それは「わたし」のエネルギー・エリアを宇宙大に拡大することである。するとそれぞれの如来のエネルギー・エリアと一体になり、ついにはその総体である大日如来のエネルギー・エリアとひとつに成れる。「宇宙即我」ということ。これが第八段「四種の輪円」の教えである。ではそもそもどうすれば「わたし」のエネルギー・エリアを宇宙大に拡大出来るのだろうか。密経では三密加持をその方法論として説いているが、それよりも何よりもまず「わたし」の意識を宇宙大に拡大することが必要である。「わたしは宇宙」だと思い込むこと。この教えを読誦し暗唱し常に心に刻み込んでいれば、それが出来ると理趣経は説いているのである。
この第八段「入大輪の法門」の主役は纔発心転法輪菩薩(さいはっしんてんぽうりんぼさつ)である。悟ろうとする心(菩薩心)を発すれば、直ちに法の輪を回してくれる菩薩ということで、つまり「わたし」が自らのエネルギー・エリアを拡大して高次元に向かおうと決意すれば(菩薩心を起こせば)、直ちに大宇宙のエネルギー・エリアに導いてくれる菩薩ということ。八大菩薩の六番目の菩薩である。この纔発心転法輪菩薩は、入大輪如来の教えを聞くと、その教えを明確に表現しようと、お顔に微笑みを浮かべ、金剛輪(八つの尖りを持った輪状の法具)を右中指で回しながら、永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような悟りの心を「ウン」という種字に表し唱えた、という。この入大輪如来は纔発心転法輪菩薩の如来形であり、二位一体ということ。つまり自分で自分に説法して自分で納得して自分でその悟りを表現していることになる。いや、密教はだから凄い。
[第九段・供養の法門の解説]
第九段の供養の法門の教主は、広大儀式如来(こうだいぎしきにょらい)である。すべての如来を様々に供養する蔵のエネルギーである如来である。さてこの如来の教えとは
『悟ろうとする心(菩提心)を起こせば、それはすなわち多くの如来をあまねく広く供養することになる
すべての生きとし生けるものを救おうとすれば、それはすなわち多くの如来をあまねく広く供養することになる
仏の希少な経典を保持すれば、それはすなわち多くの如来をあまねく広く供養することになる
悟りに至る智慧の教えを心に留め、読誦し、書写し、人にも書写させ、よく思い巡らし、習い修め、折に触れて様々な供養をすれば、それはすなわち多くの如来をあまねく広く供養することになる』
供養とは、要するに喜ばせることである。すべての如来に供養するとは、つまりあらゆるものを喜ばせることである。菩提心を起こし、すべての生きとし生けるものを救おうと決意し、経典に説かれている教えに従い、悟りに至る智慧の修行に邁進すれば、それはすべてのものを喜ばせることになる。そしてみんなが喜ばせ合えば、世の中は明るく素晴らしい世界になる。誰が考えても解ることだろう。ではなぜ出来ないのか。自分の利益しか頭にないからである。今だけ金だけ自分だけ、というフレーズをどこかで聞いたことがあるが、そうした行き過ぎた資本主義の考えが世界中にはびこり、私利私欲に走り、格差を生み、環境破壊を深刻化させ、しまいににっちもさっちもいかない状況に自分で自分を追い込んでいる。まったく愚かにもほどがあるのが現在の人類である。みんなで喜ばせ合おう、という供養の精神こそ、今は何よりも必要なのではないだろうか。と、この点についてはまだまだ話し足りないのだが、キリがないので止めます。この広大儀式如来の教えを聞いた虚空庫菩薩は、その教えを明確に表現しようと、お顔に微笑みを浮かべ、この宇宙のすべての活動は、空なる宇宙のエネルギーによって起こされ、それこそが悟りの心のエネルギーであるという、永遠に光り輝くダイヤモンドのよう堅固不滅の心を「ウン」という種字に表し唱えた、という。虚空庫菩薩とは、宇宙に満ちる供養の宝庫のエネルギーということで、虚空蔵菩薩と似ているが、虚空蔵菩薩が智慧のエネルギーであるのに対し、虚空庫菩薩は喜びという感情のエネルギーと捉えることが出来る。この虚空庫菩薩の如来形が広大儀式如来であり、例の自分で自分に説法して自分で納得して自分でその悟りを表現するという自己完結型のパターンである。でも自分の直観力を信じるとは実はこういうことではないだろうか。それがあながち独り善がりではないことを密教はまた教えてくれている。
[第十段・忿怒の法門の解説]
第十段の忿怒の法門の教主は能調持智拳如来(のうちょうじちけんにょらい)である。よく間違いを犯しているものを打ち破り仏の教えに従わせる智慧の働きのエネルギーである。その能調持智拳如来の教えとは
『すべての生きとし生けるものはみな平等なのだから、あらゆる怒りもみな平等なのである
すべての生きとし生けるものは誤りを正されるものだから、あらゆる怒りもまた誤りを正すことになるのである
すべての生きとし生けるものはみな悟りの次元に至っているのだか、あらゆる怒りもまた悟りの次元の行為となる
すべての生きとし生けるものは永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような存在なのだから、あらゆる怒りもまた永遠不滅の輝きに満ちているのである
それはいかなることか。すべての生きとし生けるものは、誤りが正されれば、速やかに悟ることが出来るのである』
悟りの世界においては、あらゆる怒りはすべて生きとし生けるものの誤った考えを打ち砕き、正しい仏の教えに導く行為となる。我々のようなものが自分の小さなプライドを傷つけられて怒るのとは次元が違うのである。悟りの世界の怒りは、すべてのものを救おうという慈悲の心の現れであり、それだからダイヤモンドのように堅固不滅の輝きに満ち溢れている。そして実は我々も、その堅固不滅の輝きに満ち溢れた存在なのである。つまりすでに悟りの世界にいるのである。それに気づけば、どんな怒りも尊く有り難いものになる。それに気づいていないから、ちょっとしたことですぐ頭にくるし、ちょっと怒られると、すぐに落ち込んだりする。ダメダメである。「あなた」はすでに、怒りすらも素晴らしいと思える高次の世界にいるのだということを自覚しなさい、と能調持智拳如来は我々に教え諭しているのである。この能調持智拳如来の教えを聞いた摧一切魔菩薩(さいっさいまぼさつ)は、金剛夜叉明王に姿を変えて、堅固な牙を表す金剛拳の印を結び、すべての如来までをも恐怖に落としれながら、堅固不滅なる怒りはそのままに大いなる歓喜であるという心を「カク」という種字に表し唱えた、という。この摧一切魔菩薩は、すべての魔を打ち砕く菩薩であり、金剛界大マンダラ(成身会)における北方・不空成就如来の四親近菩薩のひとつ金剛牙菩薩と同じと考えられている。この不空成就如来の教令輪身は金剛夜叉明王であり、従って不空成就如来と摧一切魔菩薩と金剛夜叉明王は三位一体の関係になる。なお、金剛夜叉明王の容姿は三面六臂で、正面の顔には目が五つもあり、こんな顔に牙を剥き出しにして睨まれたら、確かに如来すらも恐怖に震え上がるに違いない。
さてこの十段で、八大菩薩のすべてが出揃ったことのなる。一括りとして纏めておこう。八大菩薩の登場は第三段から始まる。表にすると
1・第三段「降伏の法門」
教主{釈迦牟尼如来=阿閦如来}
対告{金剛手菩薩(金剛薩埵)=降三世明王}
2・第四段「観照の法門」
教主{自性法性清浄如来=観自在王如来}
対告{観自在菩薩}
3・第五段「富の法門」
教主{一切三界主如来=宝生如来}
対告(虚空蔵菩薩}
4・第六段「実働の法門」
教主{得一切如来智印如来=不空成就如来}
対告{金剛拳菩薩}
5・第七段「字輪の法門」
教主{一切無戯論如来}
対告{文殊菩薩}
6・第八段「入大輪の法門」
教主{入大輪如来}
対告{纔発心転法輪菩薩}
7・第九段「供養の法門」
教主{広大儀式如来}
対告{虚空庫菩薩}
8・第十段「忿怒の法門」
教主{能調持智拳如来}
対告{摧一切魔菩薩=金剛夜叉明王}
となる。段が上がるほど、それこそダンダン覚えきれなくなるだろう。いっぺんに覚えようとするからである。一段一段、時間を掛けながら、よく読み込み、読誦し、熟考し、心に落とし込んで初めて理趣経を自分のものに出来る。その教えが細胞の隅々まで行き渡り、揺るぎない確信となって、ようやく悟りの境地とは何かが見えてくる。読経は修行であることをよく噛み締めながら先に進もう。
[第十一段・普集の法門の解説]
第十一段の普集の法門の教主は一切平等建立如来(いっさいびょうどうこんりゅうにょらい)である。あらゆるものが平等であるマンダラ世界を建立するエネルギーである。その教えを見てゆこう。
『宇宙のすべてはすでに悟りの世界(マンダラ世界)である。それは最も勝れた悟りの智慧に至る真理である。それはどうゆうことか
あらゆるものは本来、平等なのだから、悟りの智慧に至る真理は誰もが平等なのである(阿閦如来の智慧<金剛部のマンダラの真理>)
あらゆるものは本来、平等に恩恵を受けているのだから、悟りに至る智慧の真理は誰に対しても恩恵を与えるのである(宝生如来の智慧<宝部のマンダラの真理>)
あらゆるものは本来、清らかなのだから、悟りに至る智慧の真理は誰もが清らかであることを示している(観自在王如来の智慧<蓮華部のマンダラの真理>)
あらゆるものは本来、活動するという本質を持っているのだから、悟りに至る智慧の真理はすべてに働きかけるのである(不空成就如来の智慧<羯磨部のマンダラの真理>)』
この段十一段では、四智のマンダラについて説かれている。すなわち金剛部、宝部、蓮華部、羯磨部のマンダラである。阿閦如来の智慧である大円鏡智を表現した金剛部のマンダラ、宝生如来の智慧である平等性智を表現した宝部のマンダラ、観自在王如来の智慧である妙観察智を表現した蓮華部のマンダラ、不空成就如来の智慧である常所作智を表現した羯磨部のマンダラのこと。これらはそれぞれ金剛頂経の金剛界品、降三世品、遍調伏品、一切義成就品に説かれているということだが、そのマンダラ世界においてはすべてのものは平等であり、そして宇宙のすべてはすでに悟りの世界(マンダラ世界)である、とここで結論付けている。つまり全宇宙のすべてのものはすでに悟っており、あらゆる恩恵を受け、すべては清らかであり、どんな活動も可能なのだ。これが最も勝れた悟りに至る智慧の真理であるということ。この十一段は、理趣経の総論というべき段であり、今まで説かれてきた様々な悟りに至る智慧の真理は、詰まるところ、我々の今いる宇宙はすでに悟りの世界だということである。さあ、あなた、あなたはどう感じるだろうか?。今まで理趣経をサーと読んできて、ああ、そうか、わたしはもう悟りの世界にいたんだ、と気づけましたか?。まだの人は、この理趣経を何百回、何千回と読み込み、唱え、四六時中思い巡らして見てください。きっといつかはそのことに気づくことが出来るでしょう。すぐに気付ける人もいれば、そうでない人もいる。千差万別なのだから、諦めずに試してみたらどうでしょうか。ただ、最初から気合いを入れ過ぎても後が続かなくなる。最初は、そういう考え方もあるんだなあ、程度にして、焦らず、ゆっくりと時間を掛けながら、楽しく学べばいい。楽しくなければ修行じゃないんだから・・。ちなみに、この十一段までがマンダラの中心を形成する仏菩薩の世界、つまり悟っている世界であり、十二段からはまだ悟っていないものたちの世界である外金剛部のマンダラを説いていて、従ってこの十二段はその悟りの世界と悟っていない世界を結ぶ交差点のような役割を果たす段だという解釈がある。これを「真俗合明曼荼羅(しんぞくごうみょうまんだら)」とか「真俗合説曼荼羅(しんぞくがっせつまんだら)」とかと呼んでいるが、この解説でも述べてきたように、そもそも理趣経は最初の序分から我々を高次のマンダラ宇宙、つまり悟りの世界に導き入れるように仕組まれているのであり、この十一段で、初めて真(悟りの世界)と俗(俗世)が合わさったのだ、と言われても、何を今さら、という感じがある。まあ、捉え方は人様々だから良いのだが、あんまり古来の説に固執せず、自由に自分の直観で読み解くことをお勧めする。そうでないと経典を本当に自分のものに出来なくなる。
さてこの十二段の教主は一切平等建立如来ということだが、実は彼は普賢菩薩の如来形とされている。それはなぜかと言えば、まず何よりも金剛頂経を読み解いていなければ解りようもない。だから再三言っているように「金剛頂経を読み解く」の解説を先に呼んでください。ここでは取り敢えず短かめに説明しておこう。
上が金剛界九会(こんごうかいくえ)マンダラである。下が中心にある成身会(じょうしんね)の拡大図である。
この成身会が金剛界大マンダラであり、金剛頂経が説いているマンダラである。金剛界大マンダラは三十七尊で構成されている。真ん中の球体エリアの中心に大日如来が座し、その東南西北の球体エリアの中心に四方四如来、すなわち東方に阿閦如来、南方に宝生如来、西方に観自在王如来(阿弥陀如来)、北方に不空成就如来が座している。これらを五智如来という。阿閦如来の球体エリア内の四方には、金剛薩埵、金剛王菩薩、金剛喜菩薩、金剛愛菩薩の四親近菩薩(ししんごんぼさつ)が、宝生如来の球体エリア内の四方には、金剛宝菩薩、金剛光菩薩、金剛幢菩薩、金剛笑菩薩の四親近菩薩が、観自在王如来の球体エリア内の四方には、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛語菩薩、金剛因菩薩の四親近菩薩が、不空成就如来の球体エリア内の四方には、金剛業菩薩、金剛護菩薩、金剛牙菩薩、金剛印菩薩の四親近菩薩が配置されている。これらを十六大菩薩という。これらの十六大菩薩は、大日如来が四方四如来にプレゼントした菩薩である。今度は四方四如来が大日如来にプレゼントしたのが四波羅蜜菩薩(しはらみつぼさつ)という女性パートナーで、大日如来の球体エリア内の東南西北に、金剛波羅蜜菩薩、宝波羅蜜菩薩、法波羅蜜菩薩、業波羅蜜菩薩が配置されている。さらに今度は大日如来が四方四仏にプレゼントしたのが金剛嬉菩薩、金剛鬘菩薩、金剛歌菩薩、金剛舞菩薩の内の四供養菩薩という遊び女(あそびめ)であり、それぞれ大円の東南、南西、西北、北東の空間に配置されている。またさらに四方四如来が大日如来にプレゼントしたのが金剛香菩薩、金剛華菩薩、金剛燈菩薩、金剛塗菩薩の外の四供養菩薩という遊び女であり、それぞれ内枠の角の東南、南西、西北、北東に配置されている。この内の四供養菩薩と外の四供養菩薩を合わせて八供養菩薩という。最後が大日如来が顕現させた内枠の門衛である金剛鉤菩薩、金剛策菩薩、金剛鏁菩薩、金剛鈴菩薩の四摂(ししょう)の菩薩である。それぞれ東南西北の門に配置されている。以上が金剛界大マンダラの三十七尊である。外枠は外金剛部と言って天部の神々が配置されている。金剛頂経は、この金剛界大マンダラの三十七尊の生成システムが説かれているのである。で、各菩薩がどのように生成されたかというと、大日如来並びに四方四如来、さらにすべての如来たちの菩提心、すなわち悟れる心のエネルギーがそれぞれ集合して顕現したものであり、その菩提心のエネルギーを普賢菩薩という。つまりマンダラ宇宙を形成しているのは普賢菩薩ということである。さらに普賢菩薩が金剛名を授けられて金剛薩埵になる。普賢菩薩と金剛薩埵はイコールの関係になる。すなわち大日如来の悟れる心(菩薩心)の顕現が金剛薩埵(普賢菩薩)ということである。まずここを押さえておかないことには、理趣経は読み解けないのである。解りましたか?。
だから、この第十一段では、マンダラ宇宙を形成している普賢菩薩が主人公となる。それはまた金剛薩埵のことだから、金剛薩埵(金剛手菩薩)は普賢菩薩の如来形である一切平等建立如来の教えを聞くと、すべての仏菩薩の菩薩心と同化してマンダラ世界に入り、その教えを具体的に表現しようと、空なる生命エネルギーである悟れる心(菩提心)、すなわち普賢菩薩の「ウン」という種字に表し唱えたのである。
[第十二段・有情加持の法門の解説]
さて、前段で少し説明したが、今度は我々と同じようにまだ悟っていることに気づいていない外金剛部の神々に向かって、大日如来が直接説法する段である。第三段から第十一段まで、散々いろんな如来並びに菩薩に変身して法を説いてきた大日如来が、ここへきて元の姿で法を説く理由は、まず悟りの世界で悟れる者に説いていた教えに変わって、今度は悟っていることに気づいたいない梵俗(神々もそうである)に直接教えを説くために、解りやすく見える姿で顕現したからである。つまり今までは悟っている菩薩達へさらに大日如来の最高度の悟りを説くために、八大菩薩とそれにプラスして菩提心という生命エネルギーの本源である普賢菩薩に変身してきたが、今回は悟っていることに未だ気づいていない天部の神々に、あんた達も実は悟っているんだよ、と教え諭すには、大日如来のままの方が解りやすいだろうということ。その大日如来は外金剛部の神々にこんな教えを説いた。
『すべての生きとし生けるものは、互いに宇宙根源のエネルギーを満たし合い、補い合っているのだから、本来はひとつなのである。これが悟りに至る智慧の真理である。それはこのようなものである
すべての生きとし生けるものは、如来になるための無尽の蔵を、その心のうちに持っている。それは「宇宙すなわち我」という普賢菩薩の境地に他ならない
すべての生きとし生けるものは、堅固不滅に光り輝く無尽の蔵を、その心のうちに持っている。それは堅固不滅の光のエネルギーを灌頂する(虚空蔵菩薩の)境地に他ならない
すべての生きとし生けるものは、本来清らかであるという無尽の蔵を、その心のうちに持っている。それはあらゆる言葉を駆使して真理を説く(観自在菩薩の)境地に他ならない
すべての生きとし生けるものは、宇宙のすべての働きの蔵を、その心のうちに持っている。それは宇宙のすべての働きがそのまま生きとし生けるものの働きであるという(金剛拳菩薩の)境地に他ならない』
ここでは大乗仏教の如来蔵思想が説かれている。すべての生きとし生けるものは、如来という悟りのエネルギーの蔵を心のうちに持っているのだ、だから誰もが悟れるのだ、ということ。理趣経は、この如来蔵思想をさらに金剛部、宝部、蓮華部、羯磨部という四智に分け、それぞれの筆頭である普賢菩薩、虚空蔵菩薩、観自在菩薩、金剛拳菩薩のエネルギーとして解き明かしている。あなたは如来蔵というすべての宇宙のエネルギーそのものなのだよ、つまり大日如来というわたしそのものがあなたなのだよ。これは本当に有り難い教えである。この時、悟りの世界の外側(外金剛部)にいた異教の神々は、えっ、わたし達も悟っていたんだ、と気づいて大喜びし、歓喜の声を上げながら、自分達も永遠不滅に光り輝くダイヤモンドのような宇宙とひとつなのだという真実の心を「チリ」という種字に表し唱えた、という。この十二段こそ、理趣経の真髄を具体的に表していると言えるだろう。誰もがすでに悟っている、この大宇宙とひとつなのだ、すなわち「宇宙即我」ということ。その自覚を持って生きよう。そうすれば今までとはまったく違う世界が広がり、まったく違う自分が見えてくるかも知れない。あなたもぜひそうしてみたらいかがだろうか。
[第十三段・七母天の法門の解説]
この時、以前は凶悪だったが、仏の慈悲により仏法守護の立場になった七人の女神たちは、大日如来のみ足に平伏し礼拝しながら、仏法に従わぬものを強引に鉤に引っ掛けて引き寄せ、引き寄せたものを導き入れ、その悪しき心を抹殺し、仏道に邁進すればそれを成就させることを誓い、悟りの境地はまさに真実であるという心を「ビュ」という種字に表し唱えた、という。これらの七人の女神は、諸説あるが、カウヴェリー、ラウドリー、カウマリー、ヴァイシュナヴィー、ヴァーラーヒー、アインドリー、チャームンダーというシヴァ神の凶悪な側面であるマハーカーラ(大黒天)のパートナーとされている。とにかく人を喰らうおっかない女神様達である。そんな女神たちが仏法に帰依して善神になった訳だが、第十二段での大日如来の有り難い教えを聞いて感激し、大日如来の足もとで礼拝し、仏法に従わないものを強引に拉致して仏道に邁進させます、と誓う。なにしろ元は恐ろしい女神だから、その力は超強力。我々も怖い女神たちに脅かされないよう、素直に仏道に邁進した方が身の為だろう。
[第十四段・兄弟の法門の解説]
さて、次は兄弟である。この兄弟とは、前述したヒンドゥー教の最高神である破壊神シヴァ、創造神ブラフマー、繁栄神ヴィシュヌの三柱である。この三柱によって世界が運営されているとして、ヒンドゥー教教学ではトリムルティーと呼んで重要視している。このヒンドゥー教の最高神も仏教に帰依して仏法守護の善神になっていた訳であるが、彼らも大日如来の有り難い教えを聞いて感激し、そのみ足に親しく礼拝し、自らの真実の心を「ソハ」という種字に表し唱えた、という。
[第十五段・姉妹の法門の解説]
兄弟の次は姉妹である。この姉妹は、ヒンドゥー教における音楽を司るシンブル神の妹たちで、ジャヤー、ヴィジャヤー、アジター、アパラージターの四天女のこと。音楽を奏でる見目麗しい天女たちである。この天女たちは、それぞれ瞑想の中で安定感と悦楽感と充実感と清浄感をもたらしてくれるとされている。瞑想中にこんな美しい天女の音色に満たされたら、どんなに幸せだろう。この天女たちもまた、大日如来の教えに感激し、大日如来に捧げるため「カン」という種字を表し唱えた。
[第十六段・各具の法門の解説]
その時、世尊は、今までに説かれた火の打ちどころのない完璧で究極の教えに強力なエネルギーを注ぎ込もうと、無量無辺究竟如来(むりょうむへんくきょうにょらい)に変身されたという。無量無辺究竟如来とは、無限大の量と無限大の広がりを持つ究極の如来ということで、まず大日如来のことを指している。この十六段は、理趣経全体の総論というべき段になる。心して聞いた方がいい。さて大日如来はこうお説きになった。
『このように悟りに至る智慧の真理への道は、あらゆるものが平等でダイヤモンドのように堅固不滅に光り輝いていることを説いているのである。それはこのようなものである
悟りに至る智慧は、数え切れないほど無数に存在しているのだから、それを説く如来は数え切れないほど無数に存在しているのである
悟りに至る智慧は、途方もなく広大であるのだから、それを説く如来は途方もなく広大なのである
すべての真理はただひとつのことを解き明かしているのだから、悟りに至る智慧はただひとつなのである
このすべての真理は究極の教えなのだから、悟りに至る智慧は究極の教えなのである』
無限大の量と無限大の広がりを持つ究極の教えがこの理趣経であるという。それは広大無辺の宇宙を満たす数知れない如来たちの共通の教えであり、ダイヤモンドのように永遠不滅に輝き続けるただひとつの教えなのだという。それは何か。「あなたはすでに悟っている。この広大な宇宙そのものなのだよ」ということ。これが理趣経の説くただひとつの究極の教えである。解説では、このことを折に触れて説明してきたが、ここに来てそれが明確に表現されている。もう一度最初から何度も読み返し、何度も読誦し、心に刻みつけてみよう。きっとそのうちに、ハッと閃めく時が来るかも知れない。瞑想をすることももちろん良いし、三密加持行をすることも行者にとっては必要だろう。ただその前に、この理趣経を初めとする密教の経典には何が説かれているのか、それをまず知らなければ、何のために修行をするのかさえも解らなくなる。理趣経を読むという意味を、我々は今一度、真剣に考えなければならないだろう。と、ここで結論めいたことを言ってしまったが、まだ続きがある。大日如来は言う。金剛薩埵よ、もしこのことわりを聞き、自分のものとして読誦し、よく思い巡らせるのなら、仏菩薩の修行を完成させ、みな究極の悟りを得るのである、と・・。
[第十七段・深秘の法門の解説]
いよいよ最後の十七段である。その時、世尊は得一切秘密法性無戯論如来(とくいっさいひみつほっしょうむけろんにょらい)に変身して法を説かれた、という。得一切秘密法性無戯論如来とは、神秘に満ちた全宇宙の真理は、善だの悪だのというくだらない議論を遥かに超越している境地のことであり、その真理を獲得している如来ということ。まさに大日如来のことである。無戯論とは、我々俗世の人間が後生大事にしている価値観のすべては、いっさいがっさい無意味なものである、ということ。大日如来はこう説かれる。
『初めもなく、中ほどもなく、終わりもない無始無終の最も勝れた、大いなる快楽そのものの、空なるエネルギーに満ち溢れた悟りの境地は、ダイヤモンドのように永遠不滅に輝き続ける宇宙の本質を解き明かしている。それが悟りに至る智慧の真理への道(般若理趣)なのである。それはこういうものである
菩薩はすべての生きとし生けるものを救済しようという最も勝れた大いなる欲望を我がものにしているが故に、最も勝れた大いなる快楽を我がものにするのである
菩薩は最も勝れた大いなる快楽を我がものにしているが故に、たちどころに最も勝れた如来の境地に到達するのである
菩薩は最も勝れた如来の境地に到達しているが故に、たちどころにすべての如来が持つ、最も勝れた魔を粉砕する力を発揮するのである
菩薩は最も勝れた魔を粉砕する力を発揮するが故に、たちどころに全宇宙を自由にする法王の位に就くことが出来るのである
菩薩は全宇宙を自由にする法王の位に就くことが出来るが故に、たちどころに迷いの世界を流転する生きとし生けるものの汚れを清め、大いなる努力を持って、常に生死の運命に晒されている生けるものに、あらゆる恩恵と安楽を与え、最も勝れた究極の境地に至らしめるのである』
菩薩はまず大いなる欲望、つまりすべての生きとし生けるものを救済しようという欲望を持つことによって、永遠不滅に持続する究極のエクスタシーの境地に至る。それは如来の悟りを獲得したことであり、すべての魔を粉砕する力を持ったことを意味する。さらにそれは全宇宙の法王(大日如来)になったことを意味するのであり、迷いの世界で苦しむ生きとし生けるものを清らかにし、あらゆる恩恵と安楽を与え、最も勝れた究極の悟りに至らしめることが出来る、という。これを「五秘密」といい、大いなる欲望、大いなる快楽、如来の悟りの境地、すべての魔を粉砕する力、そして大日如来の究極の悟り、の五つを意味している。この菩薩とは金剛薩埵のことであり、金剛薩埵は五秘密の境地にいるから、すでに大日如来である、ということ。ではこの金剛薩埵は誰かと言えば、実は「あなた」のこと。「あなた」はすでに大日如来である、ということ。ただし条件がある。「あなた」はすべての生きとし生けるものを救い取ろうという大きな欲望を持っていますか。それが悟ろうとする心、すなわち菩薩心であり、この固い誓いをいつまでも持ち続けていることが第一条件。その上で、あらゆる俗世のしがらみを乗り越え、いついかなる時でも快楽の境地を維持できていることが第二条件となる。それが出来たとしたら、もう「あなた」は高次元の如来たちの仲間入り。そしてあらゆる魔、例えば物やお金や権威や異性などの誘惑をすべて断ち切り、またそれらに惑わされている人をすべて救うための力を持ち、全宇宙の生きとし生けるものの苦悩を取り除いて清らかにし、あらゆる恩恵と安楽を与え、最も勝れた究極の悟りに至らせることが出来れば、「あなた」はすぐにでも大日如来となれる。どうですか?。よければ一度、試してみることをお勧めします。
ここで大日如来は、今の「五秘密」の教えを偈(げ)、つまり詩によって表現する。これが有名な「百字の偈」と呼ばれているところである。有名というのは、理趣経のエキスがこの偈の中に集約されているからであり、真言僧はもちろん、理趣経を読めない信者の人も、この偈を覚えて唱えることが一般的であるからである。知らない人は、この「百字の偈」だけでも覚えておいた方がいいかも。ここではその意味だけを説明する。雰囲気を出すために、五七調の意訳になるのであしからず。
菩薩は勝れた智慧を持ち
生死流転を克服し
常に衆生を利するなり
涅槃に赴くことをせず
智慧と巧みな方法と
不思議な力で度するなり
世の現(うつつ)や世の様(さま)は
すべて清らかなりとして
欲すらこの世を調えて
清らかにするがゆえ
天から地獄の果てまでも
あらゆる悪を打ち砕く
蓮華の如くその体
垢に染まることはなく
あらゆる欲もまた然り
染まらずすべてを利するなり
大いなる欲清らかに
富と安心(あんじん)多かりき
すべての世界を自在にし
堅固にすべてを利するなり
これが「百字の偈」の意味である。もっとも我訳だから、おかしいだろう、と思った人は自分で訳してみるといい。そしてよく意味を噛み締め、唱えてみよう。きっと何かが閃くかも知れない。この偈を唱えた後、大日如来は金剛薩埵すなわち「わたし」に、おもむろにこう教え諭す。
『金剛薩埵よ。もしこの教えの根本である、悟りに至る智慧の真理を聞き、日々早朝に読誦し、あるいはその読経を聞くことがあったならば、その者はあらゆる安楽と喜びを得て、この現世において、大いなる快楽に至るダイヤモンドのように永遠不滅に光り輝く空なる悟りのエネルギーの次元に到達し、宇宙を自由自在に操る楽しさを満喫しながら、十六大菩薩生(宇宙創造エネルギー)を自らのものとし、如来並びに執金剛(永遠不滅の存在)の悟りを獲得するであろう』と・・。
[流通分(るずうぶん)の解説]
大日如来の十七段すべての教えを聞き終わった如来並びに金剛不滅の意志を持つ菩薩たちは、この教えが虚しく妨げられず、すぐにも達成されることを願って、金剛薩埵を称賛する歌を歌いました。
善きかな、善きかな、大薩埵
善きかな、善きかな、大安楽
善きかな、善きかな、大乗の教え
善きかな、善きかな、大いなる智慧
まことによくこの教えを説き明かしてくれました
この経文には堅固不滅の力あり
最も勝れたこの経文を保ち続けるなら至高の王者となり
打ち砕けない魔などもはやない
仏菩薩の最勝の位を得て
あらゆる悟りの境地に至ることも遠くはない
こうして共に金剛薩埵に最高の賛美を送ったすべての如来と菩薩は、この教えを保つものをことごとく悟らしめようと意を共にし、みんなで大いに歓喜したのでした
[総論]
この流通分を最後に、理趣経の解説はすべて終わる。難解な理趣経をなるべく解りやすく解説したつもりだが、それは読まれた方、個々人の判断に任せる。理趣経の解説はあまたあって解釈もそれぞれ違い、また古来からの伝統的な賢学の説とは食い違うところが多々あると思うが、これがわたしの感得した理趣経である。あなたもあなたなりに読み込み、あなたなりの理趣経を自分のものにすればいい。密教はイマジネーションの世界である。いかに自分の直観力を養うか、それが密教の智慧であり、悟りへの第一歩となる。わたしは宇宙であり、宇宙はわたしである。これが密教における究極の悟りであることを、理趣経を通して知って頂ければ幸いである。