威徳山金剛寺 密教の真髄

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「大日経を読み解く」現代語訳 

大毘盧舎那成仏神変加持経

(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)

入真言門住心品第一

(にゅうしんごんもんじゅうしんぼんだいいち)

[序]

私、金剛薩埵(こんごうさった)はこのような啓示を受けました。

世尊であられる毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)さまが、自らの「三密」のエネルギーを放出されてお造りになられた広大な金剛法界宮(こんごうほうかいきゅう)にお住まいになっている時でした。その落慶記念の祝賀パーティーには、すべての「金剛を持つ者」がことごとく集まっておりました。その喜ばしい日、毘盧舎那如来さまの悟りに至らしめる変幻自在の能力によって生じた大楼閣(だいろうかく)は、あまりにも高くて周りからは見えず、様々な如意宝珠(にょいほうじゅ)に絢爛豪華に飾り立てられておりました。世尊は、菩薩(ぼさつ)たちの身体を獅子座となさり、その中心に座っておられました。その「金剛を持つ者」たちの名は、

虚空無垢執金剛(こくうむく・汚れなき大空の如きもの)

虚空遊歩執金剛(こくうゆうぶ・汚れなき大空を闊歩するもの)

虚空生執金剛(こくうしょう・汚れなき大空に生きるもの)

被雑色衣執金剛(ひぞうしきえ・色とりどりの真理の衣を纏うもの)

善行歩執金剛(ぜんぎょうぶ・如来の立ち振る舞いをするもの)

住一切法平等執金剛(じゅういっさいびょうどう・すべてのことわりが平等であるという境地にいるもの)

哀愍無量衆生界執金剛(あいみんむりょうしゅじょうかい・生けるものの世界を限りなく哀れむもの)

那羅延力執金剛(ならえんりき・ナーラーヤナ神の法力を持つもの)

大那羅延力執金剛(だいならえんりき・ナーラーヤナ神の偉大な法力を持つもの)

妙執金剛(みょう・妙なる美味を分かち与えるもの)

勝迅執金剛(しょうじん・速やかに悟りに至らしめるもの)

無垢執金剛(むく・純金の如き清らかな悟りに至らしめるもの)

刄迅執金剛(じんじん・速やかに迷いを断つもの)

如来甲執金剛(にょらいこう・如来の甲冑の如き堅固なもの)

如来句生執金剛(にょらいくしょう・如来の言葉より生じるもの)

住無戯論執金剛(じゅうむけろん・無益な議論から離れた境地に住むもの)

如来十力生執金剛(にょらいじゅうりきしょう・如来の十種の智慧を生じるもの)

無垢眼執金剛(むくがん・汚れなき如来の眼を持つもの)

金剛手秘密主(こんごうしゅひみつしゅ・金剛薩埵のこと。執金剛の上首)

これら十九人の執金剛(金剛を持つもの)を筆頭に、微塵の数ほどの持金剛衆が控えておりました。さらに、

普賢菩薩(ふげんぼさつ)

慈氏菩薩(じしぼさつ=弥勒菩薩・みろくぼさつ)

妙吉善菩薩(みょうきつぜんぼさつ=文殊菩薩・もんじゅぼさつ)

徐一切蓋障菩薩(じょいっさいがいしょうぼさつ)

などの大菩薩に前後を囲まれ、毘盧舎那如来さまは法を説かれたのでした。その教えとは、いわゆる、過去、現在、未来を超越された毘盧舎那如来さまが、光り輝く「三密」のエネルギーを表現されることにより、如来とあらゆるものの「身・語・意」すなわち身体活動・言語活動・精神活動は同等なのだという有り難い教えでありました。

その時、普賢菩薩を筆頭とする菩薩たち、並びに金剛手秘密主を筆頭とする執金剛たちは、毘盧舎那如来さまのその「三密」のエネルギーが表現されたことによって、無尽蔵の厳かで華麗な「身(動作による悟りの表現、つまり印契)」を現しながら、喜びに奮い立ちました。なおかつ同様に、無尽蔵の厳かで華麗な「語(言葉による悟りの表現、つまり真言)」と「意(意識による悟りの表現)」をも現しながら、なおさらに喜び奮い立ったのでした。

ただし、毘盧舎那如来さまが「身」「語」「意」の「三密」のエネルギーを放出されたからとって、それが減ったり増えたりする訳ではありません。そうではなく、毘盧舎那如来さまのすべての身体の働き、言葉の働き、心の働きは、あらゆる時空間を超越して、生きとし生けるものの世界に行き渡り、こうして真理の言葉の法門(真言道句法・しんごんどうくほう)を広めているのだ、と解き明かされているのです。

また毘盧舎那如来さまは、執金剛・普賢菩薩・蓮華手菩薩たちと等しい姿に変身され、広くあらゆる方向に清らかな真理の言葉の法則(真言道清浄句法・しんごんどうしょうじょうくほう)を宣べ伝えられました。

その法則とは、悟ろうとする心(菩提心・ぼだいしん)から始まり、十の心の修行段階(十地)を経て、次第にその生き方に喜びと満足感を得るものは、様々な悪い因縁と悪い行いによって輪廻転生を繰り返し、ますますその悪い種を世の中に増幅させる生きとし生けるものの、その悪しき種の流れを排除し、今度は打って変わって良い種を発芽させるのである、というものでありました。

[本論・三句の法門]

この時であります。この祝賀会に参加しておりました私、金剛手秘密主(金剛薩埵)は、座って「三密」の瞑想をしたまま、毘盧舎那如来さまにこう質問致しました。

「悟りの世界より来たった方(如来)であり、すべてのものから供養を受けるべき尊い方(応供・おうぐ)であり、宇宙のあらゆる智慧を持たれた方(正遍知・しょうへんち)であられる世尊・毘盧舎那さま、あなたはどのようにしてありとあらゆる最上の智慧(一切智智)を得ることが出来たのでしょう。

またなぜその最上の智慧(一切智智)によって、数え切れないほどの生きとし生けるものの為に、種々様々な性質に応じた種々様々な方法論(種々方便道・しゅじゅほうべんどう)を用いながら、彼らに法を説かれるのでしょう。

また、どうして仏の教えに従い仏道に励むもの(声聞乗道)に、あるいはひとり善がりの悟りに満足するもの(縁覚乗道)に、あるいはすべてのものを悟りに導こうとするもの(大乗道)に、あるいは霊能力を磨こうとするもの(五通智道)に、あるいは天界に生まれることを願うものに、人間及び龍、夜叉(ヤクシャ・恐ろしい鬼神、毘沙門天の眷族神)、乾闥婆(ガンダーヴァ・香を食べる八部衆のひとり・帝釈天・たいしゃくてんの眷族神)、及び摩睺羅迦(マホラガ•人頭蛇身の神、八部衆のひとり)の中に生まれ変わるという法則をお説きになられたのでしょうか。

もし仏の悟りを目指すものがいたならば、すぐさま仏の姿に変わり、仏の教えに耳を傾けるもの(声聞)には声聞の姿に、ひとり善がりの悟りに満足するもの(縁覚)には縁覚の姿に、慈悲の心で人々を救おうとするもの(菩薩)には菩薩の姿に、梵天には梵天の姿に、那羅延天(ナーラーヤナ)には那羅延天の姿に、人には人の姿に、人にあらざるもの(非人)には人にあらざるものに、こうしてそれぞれの世界に赴き、それぞれの姿に変身され、それぞれの言葉と習慣に従って、『最上の智慧(一切智智)はあらゆるものに備わっている』と言われるのでしょうか。『如来の解脱(げだつ)とはこの最上の智慧(一切智智)にある』とお説きになられるのは何故でしょうか。

世尊よ。例えば「空(虚空界)」は、あらゆる判断基準(分別)から離れているため、もはや判断(分別)するとか判断しない(無分別)とかいう立場を遥かに超越しております。このように、最上の智慧(一切智智)も、あらゆる判断(分別)という概念を遥かに超越しております。

世尊よ。例えば「地(大地)」は、あらゆる生命の拠り所となるものです。このように、最上の智慧(一切智智)も、天の神や人や阿修羅(アスラ・三面六臂の鬼神、八部衆のひとり)といった生けるものの拠り所となるものです。

世尊よ。例えば「火(火界)」は、すべての薪を焼き尽くしてもなお、決して消えることはありません。このように、最上の智慧(一切智智)も、すべての煩悩を焼き尽くしてもなお、決して消えることはありません。

世尊よ。例えば「風(風界)」は、すべての塵を吹き飛ばします。このように、最上の智慧(一切智智)も、すべての煩悩という塵芥を吹き飛ばします。

世尊よ。例えば「水(水界)」は、すべてのものを潤し安息と喜びを与えます。このように、最上の智慧(一切智智)も、諸天や世の人々を潤し利益と安楽を与えます。

世尊よ、お聞かせください。

このような智慧は、何をもって因(原因)とし、何をもって根(こん・根本理念)とし、何をもって究竟(くきょう・最終目標)とするのでしょうか』

私こと金剛手秘密主は、こう質問し終わりました。

すると、毘盧舎那如来さまは、私にこうお告げになりました。

『善きかな、善きかな、金剛を持つ聖者よ!。まことに善きかな、金剛手よ!。汝は私に、よくこのような質問をしてくれた!。よく聞いて充分に理解しなさい、よいね!』

金剛手は答えました。

『はい、世尊、よくお聞き致します』

すると仏はおもむろにこう言われました。

『菩提心(悟ろうとする心)を因(原因)とし、大悲(生けるものへの哀れみの心)を根(根本理念)とし、方便(生けるものを悟りに導く手段)を究竟(最終目的)にしなさい。

秘密主よ。悟りとは何か。それは自分の心をありのままに知ることである。

秘密主よ。この至高の悟りの境地(阿耨多羅三藐三菩提)は、他の教え(外道)ではほんの少しも分からないであろう。どうしてなのか。この宇宙そのものが悟りの世界だからである。これを知る者、またこれを聞かせてみせる者は(外道には)いない。何故なら、悟りとは姿なきものだからである。

秘密主よ。あらゆる現象は本来、姿なきものである。それこそが宇宙そのものの姿なのである』

[各論一・初法明道(しょほうめいどう)]

この時、私こと金剛手は、再び仏に質問しました。

『世尊よ、どこにこの最上の智慧(一切智智)を求め尋ねたらよいのでしょう。どのようにして悟りを得ることが出来ましょう。どこでこの最上の智慧(一切智智)を起こすことが出来るのでしょうか』

すると仏はお答えになりました。

『秘密主よ。悟りに至る最上の智慧は、自らの心に尋ね求めよ。なぜならば、心は本来、清らかであるからだ。心は内にあらず。外にもあらず。その中間にもあらず。心は得ようとしても得ることは出来ない。

秘密主よ。如来の覚醒した悟りの心というものは、青くもなく黄色くもない。赤くもなく、白くもない。紅紫でもなく、水精色でもない。長くもなく、短くもない。円でもなければ、方形でもない。明るくもなく、暗くもない。男でもなく、女でもない。男でも女でもない。

秘密主よ。心は欲界(欲望の世界)のものではない。色界(物質の世界)のものでもない。無色界(精神の世界)のものでもない。天や龍や夜叉や乾闥婆(けんだつば)や阿修羅(あしゅら)や迦楼羅(かるら)や緊那羅(きんなら)や摩睺羅迦(まごらか)や人や非人という類いのものとも違う。秘密主よ。心は眼界にはなく、耳界にも鼻界にも舌界にも身界にも意識界にもない。見えないし、顕れもしない。

それはどうしてか。姿なきものである心は、あるとかないとかの判断を超越しているからである。なんとなれば、それは「空」と同じだからである。心が「空」と同じであるということは、すなわちそれは、悟りと同じということである。

このように秘密主よ。心と「空」なる宇宙と悟りの三つには、何の違いもない。これらは悲(生けるものへの哀れみの心)を根本理念として、方便(生けるものを悟りに導く手立て)の修行徳目(波羅蜜・はらみつ)を達成させるものなのである。であるから秘密主よ。

私が宇宙のありとあらゆるものごとを、このように説くのは、ここに参集した菩薩衆の、その菩提心(悟ろうとする心)を清らかにさせ、なおかつ心の在り方を知らしめるためなのである。

秘密主よ。もし善男善女が悟りとは何かを知りたいのなら、まさに己れの心を知るべきなのである。

秘密主よ。ではどのようにして己れの心を知るべきか。それは差別すること、あるいは現象に執着すること、あるいは形状にこだわること、あるいは線引きして分け隔てること、もしくは色・受・想・行・識という認識作用にこだわること、もしくは自我意識(エゴイズム)、もしくは自我(エゴ)への執着、もしくは所有欲、もしくは所有欲の対象物、もしくは清らかさへの愛着、もしくは「ここにいる」という意識、もしくは「ここにある」という意識、これらの差別化するすべてのものごとの中にそれを求めても、決して得ることは出来ないのである。

秘密主よ。
この菩薩の清らかなる菩提心(悟ろうとする心)の目指すべき道を、「初法明道(しょほうめいどう」と名づける。

※「初法明道」とは菩提心(悟ろうとする心)を起こすことによって、すべてのものごとの在り方が明らかになる、すなわち諸法が明瞭となる悟りの境地に至る道のことをいう※

菩薩はこの「法明道」に従って学び修めれば、長い間苦しい修行をしなくても、修行の妨げとなるあらゆる障害を除くことが出来るだろう。そしてもしこの「法明道」を自分のものとすることが出来るならば、その修行者は仏菩薩と同等となって、五つの神通力を獲得し、限りない言葉の表現力(無量語)と発声の豊かさ(言音)と呪文(陀羅尼・だらに)の霊力を得るだろう。生けるものの心の在り方を知ることによって、諸仏に守られ、もし生を恐れるものや死に臨んだものの苦しみに接しても、それに想い惑わされることはなくなるだろう。さらに宇宙中のあらゆる生けるものを救うことにも倦むことを知らず、あくまでも自分の心に従って自然に生きるという仏法の戒めを守ることにより、邪なものの見方(邪見)から離れ、正しいものの見方(正見)を獲得することが出来るだろう。

さらに言おう、秘密主よ。この悟りを妨げるすべての障害を除いた菩薩は、信仰の力(信解力)によって、長い間修行をしなくても、あらゆる仏の教えを我がものに出来るだろう。

秘密主よ。要するに言いたいのは、「法明道」に邁進する善男善女はみなすべて、数え切れないほどの功徳を得ることが出来るのである』

[各論ニ・順世の八心]

この時、私こと金剛手秘密主は、再び仏に詩(偈)の形式で問い掛けました。

『世尊よ、心が「空」と同じだとして、それならばどのようにしたら私の心に悟り心が生まれるのでしょう。

また、どのような兆しがあれば、菩提心(悟ろうとする心)が発したと知ることが出来るのでしょう。

願わくば、それを自覚(識心)するにはどうすれば良いか、心の本当の姿(心)を知るにはどうすれば良いか、そして如来に備わった、その勝れた本来の智慧(自然智)について説き明かしてください。

あらゆる魔を退けた偉大なる勇者であられる仏よ、どのようにして生きるものの煩悩心(心)は次々に生まれてくるのでしょうか。

その煩悩のいろいろな現れ方と、またどのような段階を経て心は進化するのかを、願わくば仏法に照らし、広く説明してください。

どのように修行すれば、数々の功徳を得ることが出来るのでしょう。また世俗の凡夫の心と、修行者の殊勝な心とはどのような違いがあるのか、大聖者であられる世尊よ、どうかお聞かせください』

このように問いかけますと、偉大なる毘盧舎那世尊は、私・金剛手にこうお説きになりました。

『善きかな、仏の真の子よ。よくぞ迷えるものを救うために、広やかな心で質問してくれた。しかしこれは勝れてこの上なく、非常に大切な教えである。心がどのように生まれるか、それは諸仏の大秘密である。他の教え(外道)では、決して計り識ることは出来ない。それを今、我は詩(偈)にして開き示そう。一心に聴きなさい。

百六十心という愚かな凡夫の心を超えて、初めて広大な功徳が生じる。この功徳の性は常に堅固なものである。悟りは、ここより生まれると知りなさい。それは無量(数え切れない量)なること虚空(空なる宇宙)の如し。どのような穢れにも染まることはなく、常に在り続ける。どんな誤った教えにも揺らぐことなく、本来、寂静であり形なきものである。無量(数え切れない量)の智慧を自らのものとすれば、絶対的な悟り(正等覚)を顕わす。仏への供養の行を修行すれば、これより初めて菩提心(悟ろうとする心)が起こるのである。

秘密主よ。生死に始まりはないと論じる、すなわち生死流転の理を知らない愚かな凡夫たち(外道の哲学者たち)は、自我(エゴ)と実体に執着し、あられるものを差別の対象に置いている。

秘密主よ。もし彼らが自己の本来の心の在り方を観想(瞑想)出来なければ、すなわち自我意識と実体への執着に陥る。

こうした愚童凡夫(外道)には、時と、地等の変化と、瑜伽我(ゆがが)と、建立浄(こんりゅうじょう)と、不建立無浄と、もしくは自在天、もしくは流出及び時と、もしくは尊貴と、もしくは自然(じねん)と、もしくは内我と、もしくは人量と、もしくは遍厳と、もしくは長者と、もしくは補特伽羅(ほとがら)と、もしくは識と、もしくは阿頼耶(あらや)と、知者、見者、能執、所執、内知、外知、社怛梵(しゃとばん)、意生、儒童、常定生、声、非声などがある。

 ※上記の解説※

「時」・・時間を実体と捉え、宇宙創造の原理とする哲学。時間を「神」という実在者とする信仰も同じ。

「地等変化」・・「地」「水」「火」「風」「空」という世界を構成する五大要素を実体と捉え、それらの変化が現象世界を創造していると論じる哲学。

「瑜伽我」・・瞑想体験によって自らの中に我(アートマン)を見出そうとする哲学。ベーダのウパニシャッド哲学がこれに当たる。

「建立浄」・・建造したある対象物、あるいは大義名分を清浄なるものとして崇め立て、あるいは金科玉条の如く崇拝する信仰形態。偶像崇拝。

「不建立無浄」・・反対にあらゆるものに価値を与えず、清浄もなく存在自体も虚しいと論じる虚無主義(ニヒリズム)。

「自在天」・・唯一絶対の創造主という実在者がいて、万物を創造したという信仰形態。一神教的な信仰。

「流出」・・陶師が土で様々なものを造るように、絶対者の手によって創造されたものが現象世界に流れ出る、というユダヤ教的発想。

「時」・・シヴァ神を奉じる一派の説で、イーシュヴァラ神の時間創造を因としてあらゆる存在の創造原理を説く。

「尊貴」・・ナーラーヤナ神あるいはヴィシュヌ神のこと。この最高神が地水火風空というあらゆる現象世界に遍在しているという信仰形態。

「自然」・・一切万物は自然に生成消滅するのであって、創造神が創造したものではないという説。現代科学の視点。

「内我」・・身体の中には心はなく、別に「我」という実体が存在し、それがあらゆる行動の要因となっているという説。ヴァイシェーシカ学派のアートマン論。

「人量」・・神我(プルシャ)の実在を認めるジャイナ教などの主張。神我(プルシャ)は人間の大小に従って、それぞれに大きさが違うという説。

「遍厳」・・神我(プルシャ)は美麗で荘厳なものを造るのであり、そうでない醜く卑しいものは神我(プルシャ)の創造物ではない、とする説。

「寿者」・・生物にも無生物にも寿命がある。伐られた木がまた生え、水が昼夜を問わず流るのはその理を表している、とする説。

「補特伽羅」・・プトガラ。生死流転の主体。生と死は名前が違うだけであり、因果律に従って往来するだけのこと、という部派仏教の犢子部の説。

「識」・・「識」は地水火風空に遍満する、という説。

「阿頼耶」・・アーラヤ。実体的自我のこと。思考や行為の結果を内蔵する。伸縮自在で微細にもなれば宇宙にも遍満する。唯識派の阿頼耶識とは全く別。

「知者」・・苦楽などを感受する、身体の中の認識主体。ヴァイシェーシカ学派やニカーヤ学派のアートマン論が想定される。自分の中の苦楽を見分けるもの。

「見者」・・視覚的認識の主体としての自我。視覚を操るもの。

「能執」・・認識するもの。認識の主体。身体の中に認識の働きとは別に存在する自我。

「所執」・・認識されるもの。認識対象。能執を真実の自我とするのは、認識される対象の働きがあるから。

「内知」・・知るもの。内面の心の働きを知る真実の自我。

「外知」・・知られるべきもの。外界の世界を知る真実の自我。

「社怛梵」・・ジニャトバン。前の知るもの、知られるべきものを想定する一派。

「意生」・・マヌジャ。最初の人間である原人(マヌ)より生まれたもので、人を意味する。人を真実の自我とする。

「儒童」・・マーナヴァ。原人(マヌ)の子孫の意味。前のマヌジャとともにヒンドウー教のヴィシュヌ派が主張する自我説。

「常定生」・・説くもの。声の主体者。言語学派の一派の自我説。

「声顕」・・言語は先天的に常に存在するもので、発音によってそれが顕れるに過ぎない。ミーマーンサー学派、ヴァイシェーシカ学派の一部の文法学派の説。

「非声」・・言語の存在を否定する立場で、言語のないところに実在の自我を説く。

秘密主よ。このような自我を前提とした差別を生じる教えは、古来よりその差別に相応した世間一般の道理に基づく解脱の道を、それなりに求めてはいるのである。

秘密主よ。愚童凡夫の類いは、まさに羝羊(ようてい・牡羊)のようなものである。しかしある折に、その頭の中に真理の光明がチラッと光る時がある。それは持斎(じさい)である。

※持斎とは、午前中に一食し、午後は絶食する行事※

この持斎という行為に、彼はちょっとした喜びを感じ、それを度々続けるようになる。

秘密主よ。これが善行の種子が初めて生まれた(第一段種子発生)、ということである。またこれを契機として、六斎日(一月に六回の持斎の日)には、父母や男女の親戚に施しをするようになる。これが第二の段階、発芽(芽種)である。また次にはこれを契機にして、親戚以外の社会全体にも施しをするようになる。これが第三の段階、土から芽が出る状態(苞種)である。また施しを徳の高い人や才能ある人に与えるのは、第四の段階、葉の繁り(葉種)である。またこの施しを芸術家や高貴な人に喜んで与えるのは、第五段階の開花(敷華)である。そして次第に親愛の想いを抱きながら、想いを込めて施しをするようになる。これが第六段階、実り(成果)である。

また次に秘密主よ。彼は戒を守り、やがて天界に生まれるだろう。これが第七の段階、果実の収穫(受用種子)である。

また次に秘密主よ。彼はこの施しの心を持ちながら戒を守り、生死流転をする中で、ある善き友からこう聞かさせるだろう。

「ここは天界である。大天界である。すべてのものに喜びと安楽を与える神々の世界である。もし、君がこの神々に真心を持って恭しく供養を捧げるのなら、すべての念願は達成されるだろう。

その神々とは、

自在天(イーシュヴァラ。破壊神。シヴァ神の異名)

梵天(ブラフマー。創造神)

那羅延天(ナーラーヤナ。保持神。ヴィシュヌ神の異名)

商羯羅天(シャンカラ。シヴァあるいはイーシュヴァラの異名)

大黒天(マハーカーラ。暗黒の大王。シヴァの一名)

自在子天(イーシュヴァラ・プトラ。シヴァの随伴者)

日天(スーリヤ。太陽神)

月天(ソーマまたはチャンドラ。月神)

竜尊(ナーガ。コブラの化身)

俱吠濫(クヴェーラ。夜叉の主および富の神)

毘沙門(ヴァイシュヴァーラナ。多聞天。四天王の北方守護の神。クヴェーラの別名)

釈迦(シャクラ。ビシュヌの変化神のひとつで雷霆神インドラのこと)

毘楼博叉(ヴィルーパークシャ。広目天。四天王の西方守護の神。シヴァの別名とも)

毘首羯磨天(ヴィシュヴァカルマン。造一切者)

閻魔(ヤマ。冥界の支配者)

梵天后(ブラフミー。梵天の后)

火天(アグニ。火の神)

迦楼羅子天(ガルーダ。鳥の神。ヴィシュヌの乗り物)

自在天后(ウマー。自在天の后)

波頭摩(パドマ。竜王のひとり)

徳叉迦竜(タクシャカ。竜王の名)

和修士(ヴァースキ。九頭竜)

商佉(シャンカ。螺貝で竜王のひとり)

羯句啅剣(カルコータカ。力行竜王)

大蓮(マハーパドラ。大紅蓮竜王)

俱里剣(クリカ。貝種竜王)

摩訶泮尼(マハーパーニ。夜叉名)

阿地提婆(アディデーヴァ。神名)

薩陀難陀(サダーナンダ。竜王名)

天仙(デーヴァリシ。神々の中の仙人)

大囲陀論師(偉大なるヴェーダ聖典の論師のこと)

である。君は各々の神々によく供養すべきである」

彼はこれを聴いて喜び歓喜し、それらの神々を恭しく崇め尊び、その教えに従って修行に励むようになるだろう。

秘密主よ。これが羝羊に等しかった愚童が、生死流転の中で最後に到達する、第八段階の嬰童心(幼児の心)である。


 ※いわゆる「順世の八心」と言われているものである。牡羊レヴェルの低級な心しかなかった凡俗が、ある時に持斎することに目覚め(第一の種子発生)、やがて親族や近隣に供養することを始め(第二の牙種)、さらに社会全体に奉仕供養するようになり(第三の苞種)、今度は徳の高い人や才能のある人に供養し始め(第四の葉種)、それを芸術家や高貴な人に喜んでするようになり(第五の敷華)、ついに親愛の想いのこもった真心からの行為となる(第六の成果)。そして晴れて天界に生まれ(第七の受用種子)、天の神々を恭しく供養し崇め奉り、その教えに従って修行に励むようになる(第八の嬰童心)※

秘密主よ。その次に、彼らの中において殊に勝れた心を持つものが現れ、解脱を求めようとする智慧が生じる。しかし彼の目指すところの悟りは往々にして、「常(常住する実在である絶対者)」も「無常(流動変化する現象)」も「空」である、といっしょくたにしているところにある。その教えに偏ってしまっているのである。

秘密主よ。彼は「空(何もないこと)」と「非空(何かある・絶対者がいる)」について、まだ何も解っていない。「空(何もないこと)」を「常(絶対者が実在すると見ること)」と「断(絶対者は実在しないと見ること)」に分けて考え、そのどちらかにかたよってしまっている。それは「非有(何もない・つまり空)」と「無有(絶対者はいない)」を、彼は分けることをせずに同じものとしてしまっているからである。いかにして「空」を分けることが出来ようか。本来の「空」が解らなければ、とても悟りの境地(涅槃)に至ることは出来ない。だから汝は、しっかりと「空」を理解し、「断(絶対者はいないと見ること・つまり常住不変のものはない)」と「常(絶対者はいると見ること・つまり常住不変のものはある)」というどちらの偏った概念からも離れなければならない。

※インドのヴェーダ哲学では、「常」を永遠の実在者としている。ヴェーダンタ(ウパニシャッド)哲学では、宇宙の本源的絶対者をブラフマン、サーンキャ哲学では純粋精神プルシャなどという。「無常」は流動変化する現象世界で、ヴェーダンタ哲学では絶対者ブラフマンの幻影であるとし、サーンキャ哲学では根本物質プラクティーの展開である現実は「無常」である、と捉えている。「空」はヴェーダンタ哲学では絶対者ブラフマンと自我アートマンの合一(梵我一如)の境地としており、サーンキャ哲学では、純粋精神プルシャが修行によって根本物質プラクティーから解脱し、独立した存在となることを「空」と定義した。いずれにしろ、そうした実在者の存在を否定する大乗仏教の「空」の概念とは大きく掛け離れており、本編では、こうした実在論にこだわり、「空」の本質を見失わないように、と戒めているのである※

[各論三・百六十心と違世の八心と出世間心]

この時、私は、「ただ願わくば、かの百六十心をお説きください」とお願いすると、仏は再び私こと金剛手秘密主にお告げになりました。

『秘密主よ。あきらかに聞きなさい。(修行者を悩ます)心の在り方には、貪心、無貪心、瞋心、慈心、擬心、智心、決定心(けつじょうしん)、疑心、暗心、明心、積聚心、闘心、諍心、無諍心、天心、修羅心、龍心、人心、女心、自在心、商人心、農夫心、河心、陂池心(はちしん)、井心、守護心、慳心、狗心(くしん)、狸心、迦楼羅心、鼠心、歌詠心、舞心、撃鼓心、室宅心、獅子心、鵂鶹心(くるしん)、烏心、羅刹心、刺心、窟心、風心、水心、火心、泥心、顕色心、板心、迷心、毒薬心、羂索心(けんさくしん)、械心、雲心、田心、塩心、剃刀心、須弥等心(しゅみとうしん)、海等心、穴等心、受生心、(猨猴心・えんこうしん)の六十心がある。

秘密主よ。これらを紐解くと、

貪心(物事に執着する心)

無貪心(あまりにも物事に執着しない心)

瞋心(怒りの心)

慈心(愛にこだわり過ぎる心)

擬心(愚かな心・物事の本質が解らない心)

智心(科学的な知識を持ち過ぎて、本質的な智慧に至らない心)

決定心(杓子定規に規律や戒律を信じ込む心・柔軟性に欠ける心)

疑心(真理を疑う心)

暗心(疑い得ない真理に対しても疑ってしまい、闇に落ちる心)

明心(疑わなさ過ぎる心・客観的な判断が欠落してすぐ何でも信じてしまう心)

積聚心(様々な知識を集積して、それを都合よくひとつのものにしてしまう心)

闘心(物事の是非善悪を論じて決着をつけようと挑む心)

諍心(自分の中で、真理に対して疑心暗鬼に陥いる心)

無諍心(あまりにも簡単に人の意見に左右され、自分を見失う優柔不断な心)

天心(すべて天に任せて安心するあまり、むしろ利己的になる心)

阿修羅心(中途半端に道を求めて、諸天とは似て非なる阿修羅クラスで満足する心)

龍心(巨大な資産を投じて利益を追求し、ひたすら儲けようと願う心)

人心(世俗的な義理人情ばかりに囚われる心)

女心(愛欲に執着する心)

自在心(自己中心に念じては、何でも自分の思い通りになると思い込む心)

商人心(商人のように、様々な知識を上乗せして真理を自分の私利私欲で変えようとする心)

農夫心(農夫のように準備に時間を費やし、なかなか行動に移さない慎重過ぎる心)

河心(川が両岸の対比で流れるように、両極の対比ばかりにこだわる心)

陂池心(池の水が満たされないように、常に何かを求めて乾き切っている心)

井心(深い井戸を見るように、物事をさも深淵なことのように思い込む心)

守護心(自分を護る事ばかりに執着する心)

慳心(いわゆるケチ・貯め込んで人には与えない心)

狗心(少量の餌で満足する犬のように、適度な修行で満足する心)

狸心(慎重になり過ぎ、なかなか獲物を捕まえられない狸や猫のような心)

迦楼羅心(群れを作らなければ飛べない鳥のように、集団でなければ何も出来ない心)

鼠心(何でも齧って穴を開ける鼠のように、人間関係に亀裂を作る心)

歌詠心(歌手が舞台で歌うように、大衆受けすることばかりにこだわる心)

舞心(さも霊能者であることが素晴らしいと思い込み、我は神なりなどと振る舞う心)

撃鼓心(教祖気取りで真理の太鼓を叩いてやろうとする心)

室宅心(自分の派閥や勢力内だけに目を向け、それを守ろうとする心)

獅子心(百獣の王のように威張りたいと思う心)

鵂鶹心(梟のように夜の活動を好み、大切な昼の活動を蔑ろにする心)

烏心(烏のように猜疑心が強く、また人の批判を気にしてびくついている心)

羅刹心(善意の中に悪意の種を撒き散らそうとする、素直に良さを認められない心)

刺心(不平や不満だらけで、いつも刺々しい心)

窟心(地下世界に理想郷があると思い込み、そこに行くことを願って修行する心)

風心(一ヶ所に留まれず、風のようにあちこちに移動して真理を求めようとする心)

水心(不浄を水で洗い流すように、不善を摘発することばかりにこだわる心)

火心(何かにつけ、すぐに情熱を燃やし過ぎる心)

泥心(泥のように愚かで、分別に欠ける心)

顕色心(主体性がなく、善にも悪にも染まりやすい心)

板心(水に浮かぶ板が重量に耐え切れず沈むように、裁量の狭い心)

迷心(方向性を見失い、思いと行動がちぐはぐになり、混迷している心)

毒薬心(毒に当たって意識朦朧としているように、運任せでぼーっとしている心)

羂索心(自分で自分を縛りつける、自己否定の心)

械心(自分で足枷をして、自分で行動を抑制しようとする心)

雲心(いつも雨雲が垂れているような、陰鬱な心)

田心(農夫が田畑を丹念に耕すように、面ずらだけ繕おうとする中身のない心)

塩心(塩を入れて純粋な素の味を辛くするように、修行中に煩悩が入り込む心)

剃刀心(剃髪して出家者になることばかりに執着し、出家の本質を忘れている心)

須弥等心(いつも自分が高みにいると思い込む高慢な心)

海等心(自分が海であるかのように、他の人を河川として見下す傲慢な心)

穴等心(器に穴が空き水が漏れるように、完璧だと慢心して欠点に気づかない心)

受生心(何ごとも運命だと諦めて努力しない心)

[猨猴心](猿のように自分の罪を人に擦りつける小賢しい心)※猨猴心は漢訳経典に欠けていて、訳者の善無畏が補ったもの※

およそこのようになる。

秘密主よ。しかし、実はこの六十心だけではない。これはほんの一例である。この中の「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)」という五大根本煩悩を二倍すれば十となり、さらに二倍すれば二十となり、さらに二倍すれば四十となり、さらに二倍して八十となり、さらに二倍すると百六十心という数となる。すなわち五大根本煩悩を基本として、修行者を悩ます心の在り方は百六十心もあることになるのである。この俗世の三妄執(百六十心)を超えて、初めて俗世から離れた修行者の崇高な心に至るのである。

そのためには、「唯蘊無我(ゆいうんむが)」を充分に理解し、「境」と、「根」と、「界」に囚われることなく修行し、前世からの悪しきカルマと煩悩と、「無明から始まる因縁」の悪しき循環が生じる根源を断ち切り、「絶対者によって世界は創造されているから運命は変えることが出来ない」と説くような愚かな思想から離れなければならない。それによって得られる崇高な湛寂(静寂)の境地は、あらゆる外道(仏教以外の思想宗教)では決して知ることは出来ない。先仏(三世十方の諸仏・あるいは釈迦牟尼仏のこと)は、このようにしてすべての禍いから離れるのだ、と説いているのである。これを「違世の八心」という。

※解説※

唯蘊無我・・蘊(うん)とは外界の現象(色)と、それを取り込む感受作用(受)と、取り込まれた現象を想念する作用(想)と、それを咀嚼する作用(行)と、識別判断する作用(識)という五蘊のことであり、この認識作用である五蘊があるのみで、そこには実体的な存在者(我)はいない、とする仏教の根本理念。

境・・感覚対象。色境(見る対象)、声境(聞こえる対象)、香境(匂う対象)、味境(味わう対象)、触境(触れる対象)、法境(総合的な感覚対象)の六境のことを言う。

根・・感覚器官。眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(臭覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(総合的な感覚)の六根のことを言う。

界・・感覚作用。眼識界(見る作用)、耳識界(聞く作用)、鼻識界(嗅ぐ作用)、舌識界(味わう作用)、身識界(触れる作用)、意識界(総合的な意識作用)の六識界のことを言う。

無明から始まる因縁・・十二因縁のこと。圧倒的な無知の暗闇(無明)から母胎に受精し(行)、次第に形態を成し始め(色)、外界と自分を意識するようになり(識)、感覚に目覚め(名色)、眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官が発達(六処)、感覚器官によって外界と接触(触)、それを受け入れ(受)、それに感情を傾け(愛)、その感情を取り込み(取)、それに執着し(有)、生まれて(生)そして老いて死ぬ(老死)。そしてまた圧倒的な無知の暗闇に戻る、という悪しき輪廻転生の循環のこと。初期の仏教では、この循環を断ち切るためには無明を消すことであるとして、それを仏智に求める*

違世の八心・・「唯蘊無我」を自覚し、「六境」と「六根」と「六識界」という三つの感覚 認識による錯覚に囚われず、「業(カルマ)」と「煩悩」と「十二因縁」の悪しき循環を断ち、「実在者によってすべてが決定されているという運命論」に惑わされなくなることが、俗世を離れた修行者の心の成長であり、これが「違世の八心」であると本経は述べている。 

秘密主よ。俗世間を超越した心を持つものは、たとえ肉体や物質界(蘊)という汚泥の中にあろうとも、このような真理の智慧に目覚めるのである。もし物質界からの離脱を決意したのなら、

聚沫(水しぶき)

浮泡(あわ)

芭蕉(淡く儚い枝葉)

陽炎(かげろう)

幻(まぼろし)

などを見たり思い浮かべたりしながら、世の無常や果敢なさを知り、執着を離れるがよい。すなわち物質界(五蘊という認識作用をもたらす世界)・感覚対象と感覚器官(十二処)・感覚対象と感覚器官と感覚作用(十八界)・認識する主体としての自我(能執)・認識される対象としての自我(所執)、それらはすべて妄執であり、いずれも本来の宇宙法則(法性)から大きく外れている。このことを知ることによって静寂な境地に目覚めるのである。それを俗世を離れた心(出世間心)というのである。

[各論四・瑜祇(ゆぎ)の行と大乗の行と真言菩薩行と信解(しんげ)行]

秘密主よ。かの俗世の八つの心の成長過程(順世の八心)にあるものも、俗世を離れた修行者の八つの心の成長過程(違世の八心)にあるものと同じように、悪しき因縁と業(カルマ)と煩悩の循環の綱を断ち切るには、「一劫」という絶え間のない期間を飛び越え、百六十心を克服し、十二因縁を超え、自我と実体という二つの執着から離れる修行をしなければならない。これが最初の段階の「瑜祇の行」である。

※「一劫を飛び越える」とは、通常の仏教では、悟りを開くには何度も生まれ変わりながら、想像を絶する時間(劫)、修行し続けなければならないとするのに対し、大日経の密教では、ありのままの心を知る「瑜祇の行」によって、その劫という時間を一足飛びに飛び越えて悟りの境地に至ると説いている※

※「瑜祇(ヨーギン)の行」とは、そのことのみに精神を集中する瞑想行のこと※

また秘密主よ。この次には「大乗の行」の段階がある。それは心の他には何もない(無縁乗心)という心の在り方(法性)を悟ることである。前世よりその「大乗の行」を修行している彼は、現象世界(蘊)はすべて無意識の最も奥底にある阿頼耶識(アーラヤ・無意識の蔵)から現れ、生成消滅しているに過ぎないことをよく観察しているために、物事の有り様(自性)は、

幻(まぼろし)

陽焔(かげろう)

影(水に映る月の影)

響(やまびこ)

旋火輪(渦巻く炎)

乾闥婆城(ガンダルバ城・存在しない幻の城・しんきろうのこと)

のようなものと熟知しているからである。

秘密主よ。彼はこのように実体にこだわらないことへの執着(無我)すらも捨てているので、心は限りなく自由であり、また心は本来永遠に存在するもの(本不生)と悟るのである。

何故かと言えば、秘密主よ。心はその始まりも終わりも捉えることは出来ないからである。このように自分の心の在り方を知れば、それは二番目の数限りない期間(二劫)を飛び超える「大乗の行」となる。

また秘密主よ。次の「真言門」では、菩薩の行を修行することになる。菩薩たちは、百千億劫という無窮の時を経て、数え切れない功徳と智慧と、つぶさに諸々の行を修めることによって得たあらゆるものを救い取る手立て(方便)とを、みなことごとく成し遂げている。であるから菩薩は、天や人の帰依するところのものであり、すべての声聞(仏法を聞き学ぶもの)と辟支仏(ひとり善がりの悟りで満足するもの)の境地を超え、釈提桓因(帝釈天)すらも親しく敬意を払う存在なのである。

いわゆる空の本質は、感覚(根)と感覚対象(境)への執着を離れて形なく(無相)、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触れることも出来ない領域(無境界)であり、そもそも諸々のつまらない議論(戯論)をする対象にはならない。そしてこの虚空のように無限の広がりを持つ仏法は、この真言菩薩行を修行することによって開き示されるのである。そしてそこから現象世界と霊的存在者の世界とを離れ、現象世界は霊的存在者の被造物であるという概念を離れ、見るもの聞くもの嗅ぐもの味わうもの触れるもの感じるものの世界を離れているからこそ、絶対的な空の心が生まれるのである。

秘密主よ。このような真言菩薩行を修めようとする菩提心を、仏は成仏の第一原因(因)と説くのである。さらに菩薩は、業と煩悩を解脱していながら、なおも業と煩悩を内に備えて、衆生を救おうとするのである。この菩薩の「大悲」が成仏の根本理念(根)である。だからこそ世の中のものは皆、菩薩を敬い尊び、常に供養を怠らないようにしなければならないのである。

秘密主よ。四番目にして最終段階の修行は「信解行」である。

※「信解行」とは、如来並びに如来の教えを圧倒的に信じ切る行である。牡羊のような最低レヴェルの心しかなかった凡俗が「順世の八心」によって心の成長を果たし、さらに俗世を離れ(出世間心)、悟りを目指す修行者となって「百六十心」を克服し、「違世の八心」を修行する段階において、最も重要な最初の行が「瑜祇の行」であり、次が「大乗の行」であり、その次が「真言菩薩行」、そして最後がこの「信解行」ということになる。要するに最後の最後には、これらの教えを徹頭徹尾、信じ切ることしかない、それが大日経の教えの帰着点となる。そしてこれが菩薩の十の心の修行階梯「十地」の最初の境地となる※

この「信解行」の境地おいて、菩提心と大悲と方便(三句の法門)という三つの心をよく観察し、悟りの彼岸に至る(般若波羅蜜多)無限の智慧によって、真理や物を施すこと(布施)、優しい言葉を掛けること(愛語)、人々に利益を与えること(利行)、同じ立場に立ち仕事をすること(同事)、という四つの善行(四摂の法)を図り知ることが出来れば、この信解の境地は、他に比べるものはなく、無限大であり、かつ喩えようもなく不可思議である、と賛嘆することになるだろう。なおかつ十の心の進化階梯を確立し、そこより無限の悟りの智慧(無辺智)が生まれるのである。

私が説くすべての教えは、みなこの境地によって得ることが出来る。このように智者は、まさにこの最上の智慧(一切智)である「信解」の境地を思惟し、さらに一劫を飛び越えて、この境地に次元上昇するのである。このように、「瑜祇の行」、「大乗の行」、「真言菩薩行」、という三段階を踏みながら、最後に「信解」を悟るのである』

[各論五・六無畏と十縁生句(じゅうえんしょうく)]

この時、私・金剛手は仏にこう質問致しました。

『世尊よ。救いを求めるものを救う尊き方よ。どうか心の相を解き明かしてください。菩薩の心には幾通りの恐れを除く遣り方があるのでしょうか。どうか偉大なる毘盧舎那世尊よ、この私・金剛手にお教えくださらんことを』

すると仏はこうお答えになりました。

『あきらかに聞き、極めて善く心に念じよ。秘密主よ。かの取るに足らない凡俗(愚童凡夫)が、もし様々な善業を行い、不善の業を放棄するならば、まさにそれは「善無畏」を獲得したことに他ならない。もし真実の我が身を知れば、まさに「身無畏」の境地を得る。もし様々な現象に左右され、それに執着している(取蘊所集)我が身を知り、自らの心に浮かぶ現象の有り様(色像)を放棄して冷静に心の様相を観察すれば、まさに「無我無畏(むがむい)」の境地を獲得するだろう。もし妄執を生む現象の有り様(蘊)を放棄して、宇宙根源の法則に則った(舉縁)境地に到ることが出来れば、まさに「法無畏」を獲得し、さらにもしその宇宙法則という実体からも自由になれば(無縁)、まさに「法無我無畏」を獲得する。

もしまたすべての現象の有り様(一切蘊)と、感覚作用(界)と感覚対象並びに感覚器官(処)と、認識主体という実体(能執)と認識対象という実体(所執)と、自我意識(我)と命の時間経過における実体の観念(寿命等)と、及び宇宙根源の法則(法)とそこに実体を認めないこと(無縁)とが、すべて空でありその本質は「なにもない」(自性無性)、という空の智慧(空智)が生まれれば、まさに「一切法自性平等無畏」を得るのである。

 <解説>

※「善無畏」とは、たとえ凡俗であっても、悪い行ないを止めて善い行ないに専念すれば、それだけで恐れから解放され、安心感が得られるということ。

※「身無畏」とは、よく自分の体の状態や行動のパターンを知れば、心配や恐れ、不安から解放されることを言う。

※「無我無畏」とは、(現象世界はあるが、そこには実体はない)と悟ることによって、その現象からもたらされる恐れや煩いの意識を排除し、心は安らかな境地に至ることを言う。

※「法無畏」とは、(現象はすべて目に見えない宇宙本源の法則から生まれるのであり、現象世界そのものは幻影である)と悟ることによって、恐れや煩いの意識を排除し、心を安んぜる境地に至ることを言う。

※「法無我無畏」とは、その宇宙法則を主導する実体(実在者・我)を認めなくなることによって、その法則性(運命)からも自由になり、心を安らかにする境地に至ることを言う。

※「一切法自性平等無畏」とは、(現象も、それを受け入れる感覚作用も、認識対象も、認識主体も、さらに時間の概念も、創造主を認めることによる運命の存在も、あらゆるものはすべて心の現れであり、すなわち空である)と悟ることによって、(すべては心が作り出したものだから、何の差異もなく徹頭徹尾、平等である)という智慧を獲得し、あらゆる恐れや煩いの意識を排除して心を安らかにする最高の境地に至ることを言う。

秘密主よ。もし真言門において菩薩行を修行するならば、菩薩たちは、幻想が生まれる十の喩え(十縁生句)をよく観察し、徹底して真言行に励めば、効験を証かすことが可能となるだろう。それでは、その十の喩えとは何か。それは、

幻(まぼろし)

陽焔(かげろう)

夢(ゆめ)

影(かげ)

乾闥婆城(ガンダルヴァ城・蜃気楼のこと)

響(ひびき・反響)

水月(水に映る月)

浮泡(水のあわ・シャボン玉)

虚空華(幻想の華)

旋火輪(炎のうずまき)

のようなもの、と己れの心を観察することである。

秘密主よ。もし真言門において菩薩行を修行するならば、菩薩たちはこのように観察すべきである。

幻とは何か。それは、呪術と薬剤による幻覚(薬力)と、さも現実のように造られる様々な幻想(イリュージョン・色造)などのことである。それらは我々の眼を惑わすためにしばしば有り得ないもの(希有)を見せる。あちこちから現れては(展転相生)、あちこちに動き回り、しかも消えるでもなく消えないでもない。それはなぜか。それらは本来、清らかであるからである。このように真言行によって現れる幻も、よく真言を覚え唱えることによって、その幻に囚われない境地を成し遂げることが出来るのである。

また次に秘密主よ。陽焔(かげろう)は、本来、なにもないものである。人々の妄想によって成立し、あるとかないとか議論されているが、真言行によって現出されるものも、ただの仮の姿である。

また次に秘密主よ。夢の中では一日、一時、一刹那、一年などの様々な期間を過ごして、楽しいことや苦しいことを体験するが、目覚めれば何もなかったことになる。真言行で現して見せるのも、このようなものであると知るべきである。

また次に秘密主よ。影の喩えによってこのことを認識しなさい。真言行は能力を完成(悉地)させることにある。鏡が己れの姿を写すのと同じように、真言行による能力の完成(悉地)も己れを鏡で写しているのと同じであると知るべきである。

また次に秘密主よ。乾闥婆城(しんきろう)の喩えによって、真言行の能力達成(悉地)の境地が蜃気楼のようなものであるという認識に至るべきである。

また次に秘密主よ。響(ひびき・反響)の喩えによって、真言を唱える意義を知りなさい。声を発することによってただ反響が起っているのだということを、真言行者は認識すべきである。

また次に秘密主よ。月が出るから清らかな水の面にその月が映るのである。このように真言は月を照らす清らかな水のようなものだ、と真言行者は人々に説くべきである。

また次に秘密主よ。天が雨を降らし地面を打って泡を作るように、真言行によって達成されたその能力が様々に変化するのも、この泡のように果敢ないものだと知るべきである。

また次に秘密主よ。空という世界の中には人は存在しておらず、命もなく、創造主もいない。心が乱れているから、そのような様々な妄想が現れるのだと知るべきである。

また次に秘密主よ。喩えば松明を人が手に持って回せば、さも炎の輪があるように見えるが、これも残像であることを知るべきである。

秘密主よ。このように観察しなさい。

すべての現象は心の現れであり、夢幻のようなものであると悟る境地・・「大乗句」

心の本質に気づき、それを探求しようとする境地・・「心句」

どんな教義も論説も、如来の智慧を推し量ることは出来ないと悟る境地・・「無等々句」

如来の心の本質を信じて、どんなものにも惑わされないという盤石の境地・・「必定句」

真言行を修行することによって、如来が己れの心に現れる境地・・「正等覚句」

次第に深淵な海底に至るように、密教の究極に至る境地・・「漸次大乗生句」

以上の「六句」の境地を一歩一歩踏み締めるように、徹底的に己れの心を観察することによって、あらゆる法財を自分のものとし、数多くの衆生済度の技術と様々な智慧とを産み出し、遍く広い真実の智慧で、すべてのものの心の姿を知ることが出来るのである』

[入真言門住心品第一]

 <完>

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